/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/
平安中期に登場した空也(903~72)も、鎮護国家四天王信仰の尾張国分寺でとりあえずの出家の後、在俗のまま諸国を遊行し、「念仏」として、庶民をも極楽浄土に往生せしめるという阿弥陀仏の名号を唱えながら、橋を架け、寺を造り、庶民の帰依を集める。その上で948年になってようやく延暦寺で受戒。
ところが、この追認の抜け穴によって、平安時代になると、貴族たちが自費で子女に寺社を新規建立させ、その功績をもって面倒な修行抜きに子女を官僧にして、その寺領に名目上の寄進を行うことで脱税する方法が横行。既存大寺院にも、修行しない俗物貴族子女の「学侶」たちが大量に入り込み、妻帯世襲も公然と行われた。たとえば、金沢貞顕(1278~六南1302~07~六北11~14~執26~26~33)が六波羅探題別当(長官)として赴任すると、その庶子、顕助(けんじょ、1294~1330)を真言宗仁和寺真乗院院主としたが、この顕助は、年上の堀川具俊未亡人と同棲している。
上述のように、戒壇のある大寺院の正規のルートで官僧になるのは、かなり難しかった。かといって、試験で高成績を出すとか、寺院を自費で建立するとかして官僧として追認を受けるというのも容易ではない。そこで、下級の貴族や武士などは、とりあえず私度僧としてかってに出家したうえでまじめに布教勧進し、堂殿建立や廃坊復興などの功績によって官僧としての追認を受けようという在俗の「聖(ひじり)」たちも多く出て来る。ただし、彼ら自身、まともな教学修行の経験が無く、庶民向けの易行、口唱念仏を見よう見まねで広め、浄財を集めた。当然、寺院側も資金調達を代行してくれる彼らを歓迎し、真言宗の高野山ですら、念仏衆の彼らを多く受け入れた。
寺院デベロッパーの出現
重源(1121~1206)は、古い奈良平群(へぐり)の豪族を在所とし、刑部(ぎょうぶ)六位左衛門尉だったが、伏見の真言宗醍醐寺で源運に師事し、浄土宗の法然に学び、大峰、熊野、葛城などの奈良の修験道の山々で修行し、平家の日宋貿易に乗じて三度も宋に渡った、という。この際、寧波の阿育王寺の舎利殿勧進を請け負い、後白河法皇(1127~院67~92)の信認を得て、日本から木材を輸出している。というのも、当時、中国はもちろん日本でも建築ブームで、都市部の木材需要が爆発的に増大しており、近隣の山々のすべてがすでにハゲ山だったからである。そして彼は、これに続いて、1171年には博多誓願寺本尊の木材を調達した。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。