『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/


官僧と私度聖

 兼好(1283?~1358?)は、京にあって、1310年ころ、いったんは滝口武士かなにか、侍品(さむらいほん、せいぜい六位)になったものの、その後すぐ、二十代後半で出家し、比叡山延暦寺に学んだとされる。延暦寺は東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三境内からなり、いま、その横川境内の元三(がんさん、良源(912~85))大師堂の前には、兼好が横川で出家し、居住し、執筆した、と説明する看板が立てられている。

 だが、その根拠とされているのは、『徒然草』238段の、この元三大師堂(竜華院)への言及。それも、原文では「人あまた伴ひて三塔巡礼の事はべりしに」とされ、その際、堂僧も知らなかった堂額の揮毫者を自分が判じてみせたという自慢話。これを素直に読むなら、堂僧は延暦寺の案内係だが、兼好は大勢で巡礼に訪れた観光客であって、その対比にこそ自慢の重点がある以上、むしろ兼好はこの訪問以前には延暦寺とはまったく縁が無かった(堂額について伝承などを知りうる立場になかった)、と理解すべきだろう。となると、二十代後半の兼好の出家というのは、何だったのか。ほんとうに彼は延暦寺に学んだことがあるのだろうか。

 本来、正規の僧侶、「官僧」になるには、師僧の「得度」を得て、戒律と法名を頂き、戒壇のある大寺院道場に入山して「受戒」に臨み、衆徒として「修行」の後、「伝法」に至る。延暦寺の場合、修行は、顕教の前行、密教の加行からなり、その厳しさのゆえに、かつては三年以上を要し、多くが脱落した。だが、戒壇出の正規僧侶「官僧」となれれば、それは天皇勅許身分であり、免税などの多くの特権があった。

 しかし、奈良時代からすでに、個人で勝手に出家してしまう「私度(しど)僧」が続出。そのほとんどが脱税目的で、律令はこれを厳しく禁じていた。とはいえ、もとより官僧の新規定員があまりに少なすぎ(本来は年10人のみ!)、その後の仏教隆盛、寺院増大の実情に合わせるため、能力ある私度僧を試験によって官僧として追認するようになる。たとえば、第二代天台座主の円澄(772~837)は、私度僧出である。

 ところで、最初に仏教を取り入れようとしたのが、もともと朝廷ではなく、六世紀の奥河内(現富田林付近)の蘇我氏であったように、七世紀においても、この地域には仏教を信奉する在家の人々「知識」が多く、私財や労役をもって自分たちで柏原に知識寺(現太平寺付近)を建てた。同地出の行基(668~749)も、奈良の大官大寺(現大安寺付近)で官僧となったが、あえて地元に戻り、「知識」たちと協力して川に橋を架けるなどの事業を行う。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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