/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/
一方、官寺では、名目ばかりの「学侶」となった俗物貴族子女はなにもせず、運営は、入山はしたものの正規僧侶になれないまま半端な身分に留め置かれた「衆徒」たち、貴族の荘園村から家族ごと動員された「行人」たちに委ねられた。もとより、伝統の南都(奈良)興福寺と後発の北嶺(叡山山門)延暦寺、さらにこれから分立した大津(滋賀寺門)園城(おんじょう)寺は不和で、つねづね武力衝突してきたが、子女を送り込んだ俗物貴族たちは衆徒を使って朝廷に強訴を仕掛け、また、衆徒たちはみずから、彼らから離反してできた鎌倉新宗派を攻撃。やがて武装はエスカレートして、仏教の教学も修行も抜きのごろつきのような「僧兵」が膨れ上がる。
また、俗物貴族子女の学侶は、寺領(実態は私的荘園)を有し、その利得を収めるのみで、管理は代官(地頭、坊官)に委ねた。また、その代官もおうおうに現地には住まず、地元民に管理徴税を任せた。この結果、恣意的な多重課税となり、農民たちが荘園村からいなくなる「逃散」が頻発。彼らは、いずれかの寺社に転がり込んで、自分たちで座を組み、派手に行動するようになる。
たとえば、第115段に「ぼろぼろ」と呼ばれる連中の話が出てくる。兼好によれば、世捨人のようだが我執深く、仏道者のようだが武闘論争ばかり。放逸乱暴だが、死を恐れず、少しも悩まないのが潔よく感じる、とされる。おそらく彼らこそが、荘園で頻発していた不在地主と現地領主の訴訟沙汰に介入し、口頭弁論で、ときには実力行使で解決を請け負った弁護士ヤクザの祖。もっとも、209段に見えるように、俗物貴族の不在地主に代わって彼らを雇って使っていたのが、売買前に複雑な権利関係をクリアにする不動産仲介業者の是法や兼好だったのだろうが。(『徒然草』には、他に205段など、法律関係の段も多い。)
また、『普通唱道集』(1297)には、門付(かどづけ)の翁猿楽に触れられている。彼らは寺社の法事祭礼の盛り立て役でもあり、縁起や神異をわかりやすく演じて庶民に伝えた。さらに、このころ、寺社の縁起物や季節物を商う売僧(まいす、蓮葉商い)、薬草やその煎じ茶をふるまう一銭茶売り(野師、香具師)なども市中に現われる。(ただし、庶民が季節市で苗木を買って造庭園芸を嗜むようになるのは、江戸末期以降。)また、法事祭礼や市中街角でその場限りのインチキな手品や賭博を手がける者もいただろう。いずれも、かなりうさんくさく、仏道者のなりでも、実情は浮浪者や山賊、詐欺師に近い。
歴史
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2022.01.21
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。