/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/
1179年、治承三年の政変(クーデタ)で、平清盛(1118~81)が親族の高倉上皇(1161~81)を擁立して、後白河法皇を幽閉し、その院政を停止。これに対し、ずっと仲違いしてきたはずの叡山延暦寺・奈良興福寺・滋賀園城寺の武装衆徒が連合して、後白河法皇の奪還騒擾を計画。しかし、もとより延暦寺天台座主の明雲(1115~1184、徒然草146)は清盛と昵懇で、後白河本人も計画を清盛に通告。1180年、清盛は延暦寺以外の奈良興福寺・滋賀園城寺を焼き払って、それらの寺院領を没収。
おりしも高倉上皇が早々に崩御し、清盛は後白河の院政再開を認める。ここにおいて、重源は後白河に焼け落ちた東大寺再建を進言し、その大勧進職に任命され、その費用捻出のために周防一国が東大寺領として付与される。このため、重源は、多様な一流の職人を全国から集め、東大寺領周防に林道を切り拓くところから始めた。また、同じく下北面武士六位左衛門尉から出家した西行(1118~90)には、奥州や鎌倉からの勧進を委ねている。95年、大仏殿が完成し、重源は「大和尚(わじょう)」(最高僧位)を与えられた。
つまり、重源は、私度僧ですらなく、むしろもともと山々を飛び回っていた寺院出入りの材木業者だったようだ。そして、それが、俗物貴族のように自費で寺院を建てるのではなく、また、聖のように庶民に念仏を広めて小銭の浄財を集めるのでもなく、寺院建設を企画し、その資金として法皇や将軍クラスから国をまるごと寺領に寄進させ、建材調達や職人招集から施工管理、さらには完成法要までトータルに行う寺院デベロッパー、ないし、寺院ゼネコンになったらしい。
ところで、寺社の伽藍や境内は、無垢清浄を旨としたために、長年、無木無草、無流無池が基本だった。平安時代の貴族の邸宅、高床大庇の国風寝殿造も、広い南庭は臣下拝礼の場であって、本来、そこに池はありえなかった。しかし、浄土教の流行で阿弥陀堂が建てられるようになると、宇治平等院や鎌倉永福寺など、現世と来世を隔てるものとして池が人工的に堂の前に掘られるようになり、また、鎌倉時代になると、禅、とくに臨済宗の寺院において、深山幽谷での修養を模すべく、山水の作庭が行われ始める。幕府によって南宋から招かれた蘭渓道隆(1213~78)は、鎌倉に建長寺を開山し、ここに庭園を造っている。
兼好にわずかに先立つ夢窓疎石(1275~1351)は、京都建仁寺や鎌倉建長寺で禅を学び、来日した一山一寧(1247~来99~1317)にも見えたものの、法嗣とは認められなかった。そこで、1305年、三〇歳のとき、山梨の僻村に浄居寺をみずから開き、これを皮切りに各地に庭を成しては次々と別地に移り、後には後醍醐天皇に認められ、苔寺として有名な西芳寺(1339)、枯山水を大成させた新設の天龍寺(1345)も手がけることになる。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。