/ゲルマン人にローマ帝国が分断され荒廃させられる事態に、対岸の北アフリカにいたアウグスティヌスは、自由を貪る人間の原罪が生み出す「地の国」に対し、神の使命に向き帰る「神の国」を論じた。そして、弱体化する帝政に代わって、ローマ教皇の西方教会とコンスタンティノープル総主教の東方教会が両地域を差配するようになっていく。/
J もうヤクザの争いですね。隣人はもちろん敵をも愛せと言ったイエスの教えなんて、ほんと、どこへ行っちゃったんだか。
この間にも、中央アジアから来たフン族はさらに西進して、ドナウ地方を征服。東ローマ帝国は、これに貢納を払って押しとどめ、すでにヴァンダル族に地中海を奪われていた西ローマ帝国は、むしろフン族を傭兵にしてゲルマン人との戦争に利用しました。
しかし、434年、アッティラ(位434~53)がフン族の王になると、協定を破って東ローマのバルカン半島を荒らし回り、西のガリアにも侵入。このため、西ローマは、こんどは逆にゲルマン人の西ゴート族などと組んで、防戦。しかし、戦才も人望も無い西ローマ皇帝は、ラヴェンナ市にあって、逃げ回るばかり。西ローマ帝国は、ローマ教皇レオ一世(位440~61)が差配せざるをえません。
J もともと、愛人を弟の西ローマ皇帝に殺された実姉が、復讐を企んで、指輪をアッティラ王に送って求婚したとかいうのが、ことの発端なんでしょ。それが、『ニーベルンゲンの歌』っていう伝説になったって聞いてますよ。
451年、かろうじて西ローマ・西ゴート連合軍がガリアでフン族を一敗させた直後の同年秋、フン族に対する国内結束のために、東ローマ皇帝は、小アジアのカルケドン市で公会議を開き、コンスタンティノープル総主教アナトリオスを議長とし、ローマ教皇レオ一世の書簡を読み上げることで、イエスの二性一位格を確認し、二位格説のアンティオキア市ネストリウス派はもちろん、単性説のアレキサンドリア市キュリロス派も異端として排除し、東方での宗教的統一を図ります。
J ややこしい神学はわからないけれど、ようするに西ローマ帝国の実質的代表、ローマ教皇の裏書きで、東ローマ帝国首都のコンスタンティノープル総主教が、アンティオキア大司教やアレキサンドリア大司教を抑えて、東方の宗教的主導権を確立した、ということですね。
翌52年、フン王アッティラは、いよいよイタリア半島に南下。皇帝のいる首都ラヴェンナ市に迫ると、ローマ教皇レオ一世が出向き、直接交渉に当たって、どういう密約を買わしたのか、とにかく連中を平和的に退去させることに成功しました。この後、アッティラは、再度、東のコンスタンティノープル市攻略をめざしますが、族内に疫病が蔓延し、本人も病死してしまいました。なんにしても、この和平交渉の成功で、西ローマにおいても、ローマ教皇の主導権が確立されます。
歴史
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2021.08.20
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。