/ゲルマン人にローマ帝国が分断され荒廃させられる事態に、対岸の北アフリカにいたアウグスティヌスは、自由を貪る人間の原罪が生み出す「地の国」に対し、神の使命に向き帰る「神の国」を論じた。そして、弱体化する帝政に代わって、ローマ教皇の西方教会とコンスタンティノープル総主教の東方教会が両地域を差配するようになっていく。/
したがって、すべての人間は、本来は、その魂からして自由を貪る原罪に汚れてしまっており、永遠の死という罰がふさわしい。ところが、神は、世界創造のときから、その一部を恩寵で救うことにしていたのだそうです。それが、アダムとイヴの子、カイン・アベル兄弟の、弟アベルの一族。
J つまり、たいした理由も無く、兄の一族のほうは見捨てられ、弟の一族は救われることに決められていたわけですね。
それで、とりあえずは、アブラハムと、それに従ったユダヤ人が「選民」とされました。しかし、イエスは、「神の国」は、目に見えるものではなく、最後の審判以前の現世ではむしろ「地の国」と混在する、と言います。「地の国」では、そのそれぞれの人々が自分の自由を際限無く貪ろうとして、たがいに悪や災厄に苛まれます。これに対し、「神の国」では、人々が回心し、神とともに幸福な自由を享受する。
J 回心って? 教会に入ること?
外から内へ魂の向きを変えることです。人間の魂は、その自由の貪りにおいて、その肉体とともに、外の物事を追ってしまう。しかし、魂そのものが回心することで、内の物事、つまり、神の与えた摂理、個々の使命を追うようになる。とはいえ、魂を内に向けても、神が与えた自分の使命なんていうものがわかるわけがない。そこで、ここでは、個人ごとに上からの神の恩寵が絶対的に必要になる。
上とは何か。彼によれば、神は時間を超越する存在であり、神において、すべての時刻が同時に存在する。神にとって、世界は、言わば一冊の本のようなもの。誰が何をするか、結末で誰が救われるかも、すべて決まっている。それは、しばしば「予定説」、プレデスティネイションと呼ばれますが、それは時間の流れの中に閉じ込められている人間から見ての話で、時間を超越している神からすれば、世界創造とともに、誰を救うかも、すべて決めてある、というだけ。
J え? その人が教会に入ったとか、善行に努めたとかは、救済と関係が無いということ?
いえ、「我を通らずには神に至らず」とイエスが言い、また、「教会の外に救い無し」とカルタゴ市のキプリアヌスが言ったように、アウグスティヌスにおいても、キリスト教を信じるのは、救いの大前提です。でも、キリスト教を信じただけで救われる、などということはありません。現に、ゲルマン人など、アリウス派キリスト教徒ですが、どうみても「地の国」で、自分たちの自由の貪りにのた打ち苦しみ、バルカン半島からイベリア半島まで、どこへどう転がって行っても「神の国」は築けない。まして、人が自分の善行で神の判断を変えて救われる、などというのは、論外。
歴史
2020.08.27
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2021.08.20
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。