/ゲルマン人にローマ帝国が分断され荒廃させられる事態に、対岸の北アフリカにいたアウグスティヌスは、自由を貪る人間の原罪が生み出す「地の国」に対し、神の使命に向き帰る「神の国」を論じた。そして、弱体化する帝政に代わって、ローマ教皇の西方教会とコンスタンティノープル総主教の東方教会が両地域を差配するようになっていく。/
でも、アウグスティヌスと同じ時代、ペラギウスという苦行修道僧が、人は善行によって救われる、という素朴な教説を語り、ローマ市で多くの信者を集めます。それどころか、410年のローマ略奪の後は、北アフリカのカルタゴ市に来て、いよいよ人気を得ていきます。それで、同じ北アフリカのアンナバ市司教だったアウグスティヌスは、原罪・入信・恩寵を強調することで、素朴なペラギウス説を論駁する必要がありました。
その後、ペラギウスは、彼の友人が司教を務めていたイェルサレム市に移り、さらに信望を集めます。しかし、ここには、アウグスティヌスの先輩で、聖書のラテン語翻訳を進めていたヒエロニムスもおり、両派はローマ司教を自分たちの側に引き込もうと、さかんに争います。
J アウグスティヌスが神学から神の無条件判断を説くのはわかるけれど、それだと、教会や善行を否定することにもなりかねないし、ローマ教皇や、聖母マリアなどの執り成しも怪しくなりません?
そうなんですよ。それで、歴代の教皇も態度を決めかねた。おまけにこのころ、神の三位一体や神の無条件判断に加えて、イエスの神人二性も問題になっていました。アレキサンドリア市総司教のキュリロス(374~444)は、単性説で、神性、つまり神のロゴスが受肉して受難した、と主張していました。これに対し、アンティオキア市のネストリウス(c381~c451)は、神性は受難しえない、したがって、イエスは神性と人性で完全独立の二位格を持っていた、としました。
418年のカルタゴ会議で、アウグスティヌス派がペラギウス派を否定。しかし、20年にヒエロニムスが死去。28年にネストリウスが東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル大主教になるに至って、論争はいよいよ混迷。30年にアウグスティヌスも亡くなりますが、同年、カルタゴ市を含む地中海中央部がゲルマン人ヴァンダル族に征服されてしまいます。
この国家的危機に、東西の皇帝は、31年、小アジアのエフェソス市で公会議を開いて、国教のキリスト教統一を図ります。ところが、単性説のキュリロス派が暴力的な修道士たちを総動員して会場を占拠し、一方的に二位格説のネストリウス派を異端として、ネストリウス本人も大主教の座から引きずり下ろしてしまいました。こうして、アウグスティヌス派やキュリロス派が正統、ペラギウス派やネストリウス派は異端ということになりましたが、こんな力づくのインチキ会議など知るか、ということで、アリウス派同様、ペラギウス派、ネストリウス派も、根強く世界に広まっていきます。
歴史
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2021.08.20
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。