/これまで吉田兼好は、伝承をそのままに受け売りして、吉田神社の神官の出などとされてきた。ところが、慶応の小川剛生教授が『兼好法師』(中公新書)で史料を洗い直すと、まったく違う実像が見えてきた。/
一六年、堀川具守(六七歳)が亡くなった。跡継の堀川具親(二二歳)は東宮権太夫となり、大覚寺統の皇太子、尊治親王(後醍醐、96代、二八歳)に仕える。親王は「紫の朱を奪うを憎む」(幕府が宮廷に乗じるのを憎む)という『論語』の言葉の出典箇所を具守に尋ね、たまたま立ち寄った兼好がこれを教えてやった、という。(二三八段)
同一六年、北条高時(1304~16~33)が十四歳で第十四代執権に就く。しかし、実権は内管領の長崎高資(たかすけ、?~1333)が握っており、将軍高時はもとより病弱で、田楽と闘犬に興じてばかりいた。一方、朝廷でも、持明院統の伏見上皇(92代、五二歳)が治天君として抵抗を続けていたが、一七年に崩御。翌一八年、花園(95代)もようやく約限の十年で退位し、皇太子で大覚寺統の尊治親王が後醍醐天皇(96代、三〇歳)として即位。ただし、彼は、実父の後宇田上皇(91代)の院政下にあり、次こそは兄の子の邦良親王(一八歳)と条件付けられていた。つまり、後醍醐は、持明院統と対立するだけでなく、大覚寺統の中でも、一代限りとして軽くあしらわれていた。
二〇年、大覚寺統に付く二条為世(七〇歳)が撰じた『続千載和歌集』(しょくせんざいわかしゅう、二十巻、約二一〇〇首)に兼好(三七歳)の作が採られる。このころ、彼は二条家四天王の一人として、地下(じげ、一般庶民)への和歌の普及に努めた。
二一年末、治天君の後宇田上皇(91代、五四歳)が隠居し、ようやく後醍醐(96代、三三歳)の親政(直接政治)となる。彼は、東国の幕府との連絡や代理の上申での手続で決裁のややこしい六波羅探題に対抗して、記録所(記録荘園券契所、荘園の登記と訴訟を扱う)を再興し、みずから公事に当たり、荘園関連以外の種々の要望も受け付け、即断即決で人気を得ていく。
しかし、この一方で、後醍醐は、蔵人の日野俊基(としもと、?~1332)らに加え、歴代の持明院統を支えてきた名門の日野家(俊基とは別)から花園天皇(95代、二四歳)の蔵人だった資朝(すけとも、1290~1332、三一歳)を引き抜き、倒幕の謀議を巡らしていく。日野俊基は、公事であえて字を読み間違えて半年ほど蟄居し、その間に山伏に扮して奈良や南大阪の世情を調べた。日野資朝もまた、あえて酒池肉林の無礼講を開いて世間の目をくらまし、その裏で岐阜の土岐頼時、多治見国長などを味方につける。
二四年九月、北野天満宮祭の日は、警備に出て、六波羅探題は手薄になる。彼らはこの日を襲撃決行とした。しかし、土岐頼時の義父が六波羅の奉行で、事態が発覚。先手を打って、前日に土岐頼時と多治見国長を討ち取る。これを、正中の変という。貞顕の子、金沢貞将(さだゆき、1302~六南24~30~33、二二歳)が六波羅探題南方別当として京都に上り来て、翌年、日野俊基、日野資朝を逮捕し、鎌倉に拘引した。後醍醐天皇(三八歳)は弁明書を鎌倉に送る。第十四代執権北条高時(二〇歳)の前で、これを読み上げた六波羅探題奉行が血を吹いて頓死。畏れをなした高時は、日野俊基を証拠不十分として無罪放免、故土岐頼時や故多治見国長と係わっていた日野資朝は佐渡流しとした。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。