『徒然草』とその時代

2020.02.19

ライフ・ソーシャル

『徒然草』とその時代

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/これまで吉田兼好は、伝承をそのままに受け売りして、吉田神社の神官の出などとされてきた。ところが、慶応の小川剛生教授が『兼好法師』(中公新書)で史料を洗い直すと、まったく違う実像が見えてきた。/

このころ、宮廷は、すでに政権を失ったにもかかわらず、天皇の上に、実権を握る上皇(出家している場合は法皇)の治天君(ちてんのきみ)がおり、また、下に皇太子がいるという、面倒な三重構造になっていた。おまけに、後嵯峨上皇(88代、1220~天42~上46~72、四〇歳)は、一二六〇年、長男の後深草天皇(89代、1243~天46~上60~1304、十七歳)を強引に廃位し、ひいきの次男の亀山天皇(90代、1249~天60~上74~1305、十一歳)を即位させ、あいかわらず治天君として自分が支配を続けた。

定家の子の藤原為家(1198~1275)は、この御嵯峨院歌壇で活躍。長男の為氏(1222~86)も、歌人としてだけでなく、参議として実務でも大いに貢献した。しかし、『続古今和歌集』(1165)では、後嵯峨院が、為家(六七歳)だけでなく、対立する六条家など四人も撰者に指名したため、方針が迷走。このため、為家は、長男の為氏(四三歳)に丸投げにしてしまう。


皇統の対立

七二年、後嵯峨上皇が崩御すると、次を巡って後深草上皇(89代、持明院統、旧大内裏東北、二九歳)と、亀山天皇(90代、大覚寺統、京都西郊外、二三歳)とで兄弟争いとなり、裁定が幕府に委ねられる。というのも、皇位は莫大な王領荘園の相続の問題でもあったからである。とりあえず生母の意向に従って、すでに立太子していた大覚寺統亀山の実子、後宇田天皇(91代、1267~天74~上87~1324、七歳)が七四年に即位。上皇となった実父の亀山が院政を敷いて支配。

藤原為氏(五二歳)は、御子左家に並ぶ歌の名家、飛鳥井家から娘を嫁取り、名実ともに歌界の中心となっていた。実務においても、後嵯峨に続いて大覚寺統の亀山からも変らぬ信頼を得る。しかし、その父、老為家は、末子の為相(ためすけ、1263~1328、一一歳)をひいきにし、一二七五年、その死後、相続などで揉め、御子左家は、長男為氏(五三歳)の二条家(五三歳)、次男為教(1227~79、四八歳)の京極家、末子為相(一二歳)の冷泉家の三つに割れてしまった。

八代執権北条時宗(1251~執68~84)は、七四年、文永の役で元寇をかろうじて撃退。翌七五年、持明院統の後深草上皇(89代、三二歳)は、亀山、後宇田と大覚寺統が続くことを不満とし、幕府に働きかけて、実子の煕仁親王(きじん、後の伏見天皇、92代、1265~天87~上98~1317、一〇歳)を、弟で治天君の亀山上皇(90代、二六歳)の猶子(ゆうし、名目だけの養子)にさせ、年下の後宇田天皇(91代、八歳)の皇太子にさせた。以後、天皇は即位時に反対皇統の親王を猶子に迎え、立太子して、およそ十年後には皇位を戻すことを約し、また、退位して後にようやく皇太子実父の治天君として実権を握れる、という両統迭立(てつりつ)が慣例とされる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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