/これまで吉田兼好は、伝承をそのままに受け売りして、吉田神社の神官の出などとされてきた。ところが、慶応の小川剛生教授が『兼好法師』(中公新書)で史料を洗い直すと、まったく違う実像が見えてきた。/
京極家において、為教は歌道にさえが無かったが、その子、為兼(1254~1332、二六歳)は、祖父為家から和歌を学び、大覚寺統に付く伯父の二条家の為氏(五八歳)やその子の為世(1250~1338、三〇歳)と対抗して、皇太子となった持明院統の煕仁親王(一五歳)に八〇年から出仕し、和歌の指導に当たって、独特の京極派を成していく。すなわち、二条派がこれまでの膨大な和歌資産を踏まえた言葉の上でのマニエリスム(形骸的)の作巧を好んだのに対し、京極派は心情を直接的に言葉にぶつけていくような新鮮な作風で、新時代を求める公家はもちろん、伝統を知らぬ武家や町人も惹き付けていく。
八一年の弘安の役の後、八四年に北条時宗が三三歳の若さで亡くなると、その執事だった北条家内管領の平頼綱(c1241~93)が実権を握る。また、八七年、大覚寺統の後宇田(91代、二〇歳)が上皇となり、持明院統の煕仁親王(二二歳)が伏見(92代)として即位。しかし、両統分裂の発端となった持明院統の後深草上皇(89代、四四歳)と大覚寺統の亀山上皇(三八歳、90代)の不仲な兄弟も健在で、院として影響力を持ち続けていた。
伏見天皇は、八九年、早くも両統迭立を破って、生まれたばかりの実子の胤仁親王(たねひと、後の後伏見天皇、93代、1288~天98~上13011~38、一歳)を立太子し、また、内管領の平頼綱が放逐した第七代将軍の惟康親王に代えて、弟の久明親王(1276~将89~1308~28)を第八代将軍として幕府に送り込んだ。このため、両統の対立はいっそう激しくなり、公家たちはもちろん、歌人の二条為世(三九歳、大覚寺統)や京極為兼(三五歳、持明院統)、冷泉為相(二六歳、将軍久明の義父)のような取り巻きをも捲き込んで、いよいよ混迷を増していく。
幕府では、九代執権北条貞時(1272~執84~1301~11)は、九三年、鎌倉の大地震に乗じて、実権を握る内管領の平頼綱を殺害し、一時的には政権を取り戻す。しかし、これを手伝った長崎光綱(?~1297)が新たな内管領となり、その後やはり、天皇よりもその代理の将軍、その将軍よりもその執権、その執権よりもその代理の内管領が日本全体を支配するという代理政治に陥っていく。
持明院統の伏見天皇(92代、三三歳)は、将軍として送り込んだ弟の久明を通じて形骸化した幕府を倒そうと謀略を巡らすが、失敗。九八年、政治にも深く関与していた歌人の京極為兼(四四歳)が佐渡に流され、本人も譲位を強いられ、実子の皇太子、胤仁親王を後伏見(93代、一〇歳)として即位させたものの、一三〇一年、わずか三年で、大覚寺統の後宇田上皇(91代、三四歳)の実子、後二条天皇(94代、1285~天98~1308、一六歳)に皇統を返すことになってしまう。
歴史
2018.07.24
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2020.02.29
2020.06.24
2020.08.27
2020.09.25
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。