/写真は、しょせん写真だ。画角や深度、膨らみがぐちゃぐちゃで、影も色合いも空気感もでたらめな、そんな立ち位置不明の塗り絵など、まともに調律もできないアマチュアオケの演奏のよう。そんなのを見ていたら、こっちの感性がやられてしまう。/
そこで、プロのカメラマンは、ライティングを工夫することで、たとえ正面でも対象の立体感を出す。三列目正面の場合も、この「ライティング」を頭の中で理念的に使う。しかし、この技術を知らないで既存の写真を絵の素材にすると、まさに平面の塗り絵のようになってしまう。プロの芸術写真を使っても、ダメ。なにがおかしいって、立ち位置が、絵と大きく違うのだ。我々は、絵や音の対象から、同時に、それを見聞きしている場所の情報も得ている。つまり、絵は、見られるモノだけでなく、見る者と見られるモノの関係性を含んでいる。
だから、望遠による説明的「平面」写真を拡大したり縮小したりすると、遠近法はもちろん画角からなにからが狂って、空間の中の立体対象の存在としてのつじつまが合わなくなり、見ている場所が失われ、いかにもパクリっぽくなってしまう。まして、画家の立ち位置としてありえない、自撮りのような広角の寄り写真を混ぜたら、いよいよ感覚的にめまいがする。物事は、近くで見れば、丸く中心が膨らんで、周辺が奥にのめり込む。石膏でも、肖像画でも、偉大な人物を偉大に描くのか、気さくな人物を気さくに描くのか、で、このボリューム感の取り方が違う。
デッサンは、測量ではない。石膏というモノでもない。人物の彫刻なのだ。だから、存在感が必要だ。たとえ三列目正面であっても、いかに胴や頭、鼻のボリューム感を出すか、その彫刻家に倣って、モデルとなった人物の内面、意志や苦悩、恐れや勇気を描き出すか、ここに絵描きとして、自分の目の「照明」を当てる腕が問われる。見えたまま写したのでは、話にならない。見えた姿をいったん自分に取り込んで、自分がそれをどう見るかを、画面に取り出す。限られた時間の中で、なにを描き込み、なにをほったらかすのか。そこに絵描きの腕が出る。
絵に問われるのは、見られるモノではない。それ以上に、その画家が、それをどう見るか。ふつうの意味では一見、ヘタに見える絵(たとえば、アンリ・ルソー)でも、それに我々が惹かれるのは、その見方が新鮮だから。逆に、シロウトの写真自慢がウザいのは、いくら対象的にきれいでも、技術的にうまくても、結局、そこに見るべき見方がまったく無いから。
ちかごろ国営放送まで、デザイン、デザインと、やたらうるさい。そのせいで、ろくにデッサンもできないくせに、既存の素材を並べるだけのデザインまがいをやりたがるワナビが湧いて出てくる。しかし、デザインは絵ではない。表現する絵心があってこそ、デザインも意味を持つ。それがないなら、絵の具と時間のムダ。
解説
2019.04.02
2020.11.07
2021.08.04
2022.01.04
2022.01.13
2022.02.01
2022.02.22
2022.03.02
2022.04.21
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。