/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/
とはいえ、その後、陽明が着目した朱子文献がかならずしも朱子晩年のものではないことが明らかとなり、主流派から排除され、朱子学とは別の陽明学と見なされるようになる。しかし、朱子晩年のものではないにせよ、朱子文献に主流派の解釈とは相容れない文言があるのは事実だ。この原因は、朱子(1130~1200)より前、旧法党、とくに二程子兄弟の齟齬に遡る。
最初は、王安石(1021~86)が『周礼』(しゅらい)の一国斉民思想に戻るべく、「新学」として『孟子』の性善説を取り入れ、「新法」として零細な商人や農民を扶け、中間の特権的な士大夫(地主商人官僚)を抑えようとしたことに始まる。これに対し、同時代の旧法洛党の司馬光(1019~86)は、『孟子』を否定し、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、士大夫の必要性を説いた。しかし、『孟子』か、『大学』か、という古典同士の権威の争いでは、すれ違いで議論にならない。そこで、朱子は、『孟子』の言うように万民が等しく性善であるにしても、やはり『大学』の言うように人間には優劣があり、政治と社会を牽引する士大夫が必要である、と理論づけた。
ここにおいて、朱子が用いたのが、理気二元論だ。理として万民が性善であるとしても、気の乱れで民衆は理を外れている。これらを理に沿わせるべく、修養によって理に適うようになっている士大夫が必要である、という。この部分は、旧法党でも、司馬光ではなく、二程子、すなわち、程顥(ていこう、明道、1032~85)と程頤(ていい、伊川、1033~1107)の兄弟の思想から取ってきている。ただ、兄の程顥は53歳で亡くなり、弟の程頤が74歳まで生きて、その言葉を伝えた。ところが、兄の程顥と弟の程頤では、じつはまったく考え方が違っていたのだ。
弟程頤による兄程顥の歪曲伝承
兄の程顥は、洛陽出身、業績抜群ながら、中央の政争に懲りて、地方官として転々とすることに甘んじ、学問に生きた。彼は、自然を愛し、天理を学び、その中に「道」としての一体の気を直観的に感じ取り、庶民はもちろん世界の痛みや喜びを自分のものとする「仁」をめざした。ここにおいて、司馬光と違って、王安石が理想とした、性善説の仁を解く『孟子』を高く評価した。
一方、弟の程頤は、もともと科挙に失敗して官僚にすらなれなれず、在野に埋もれていた。にもかかわらず、厳格な修養によって、だれでも聖人君主になれる、との屈折した考えを抱き、古代儀礼に執着拘泥した。旧法洛党の司馬光は、この程頤を好み、自分の後継者として強引に新皇帝の側近に送り込んだものの、現実の政治状況を無視したまま、学識の信念のみに基づいて古式回帰を強硬に主張したために、1186年、中央から排除されることになる。
哲学
2018.06.03
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2019.01.15
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。