/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/
かくして、陽明の考えは、もはや正統な朱子学学であるなどと主張する必要がなかった。孟子や程顥、陸象山の系譜にあって、凡庸な程頤の歪曲を介する朱子学と並ぶ、いや、それ以上の正統な理解であると考える人々が出てきた。もちろん政府の科挙は、あくまで朱子学を公認したが、こうして朱子学を官学として広めれば広めるほど、朱子の学問的ないかがわしさも知られるところなり、朱子学を深く修める者であれば、むしろ陸象山や王陽明の思想の方に傾いた。
もとより朱子学は、地位も財富も無い在野の閑寂にありながら、みずからを磨いて求心力を付け、天下をもみずからの足下に納めんとする野心的な思想だ。一方、陽明学は、いきなり大政権の中枢の役を担わされて、どうやってこの好状況を維持していくか、腐心する守勢。いわば、創業者と世襲社長の違い。
また、朱子学は、気の乱れに右往左往してばかりいる愚民どもを蔑視し、腹の据わった士大夫こそがエリートとして政権を取るべきだ、と考えている。これに対し、陽明学は、もともと天下人であることが前提だが、天理を同じくする庶民のばらばらの言行にも同等に理を認め、これらすべてをうまく感じ取ることこそが天下人に求められる。朱子学は、欲は気の乱れだとしてすべて否定してしまうが、陽明学では、農民が豊作を望むように、商人が利得を求めるのは道理であり、そのそれぞれの欲に素直に従うことが天理だ、とされ、それらの欲の実現をそのまま我がことのように重んじ計らう仁が天下人には求められる。
さらにまた、陽明学は、世界は本来は善なる世界を維持する、という楽観的な天下性善説なので、世界は本来は善になっていくように神が創造した、というキリスト教の摂理説とも相性がよく、万民一体の仁はそのままその博愛の精神と重なり、致良知は、回心し霊として生きる、という話とつながった。同様に、このキリスト教の摂理説を踏襲しているレッセフェール(なすにまかせよ)の社会や経済の自由主義とも、陽明学は相性がよかった。くわえて、朱子学があくまで自分自身を中華とし、外野や庶民の現実を雑音として徹底的に排除することを旨として、近代化のきっかけを逃したのに対し、陽明学は、すべての事象を天理の一端として自分に取り込むことに努めたことによって、時代の変化の波をうまく受け入れることができた。
ただし、朱子学は、学べばだれでも天下取りの聖人君主になれる、とするのに対し、陽明学は、あくまでもともと天下人である者の、天下人としての心得、つまり帝王学であって、なんの政治的配慮の権限も無い、そこらの庶民が高名な政治家たちの顰みをまねて陽明学なんかやったところで、茶番になるだけ。くわえて、朱子学は八条目の階梯を順を追って修養していけばいいが、陽明学はいきなり、万物万民一体の仁を養う、などという、どう考えても天賦の才なしにはできないような超人的なことを要求する。
哲学
2018.06.03
2018.09.18
2018.09.25
2018.10.02
2018.10.16
2018.10.23
2018.11.06
2019.01.08
2019.01.15
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。