/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/
第二章 社会にエリートは必要か?:三分でわかる朱子学
/一国の下に万民は等しくあるべきであるという新学新法は、特権的なエリートである士大夫(地主商人官僚)の存在を根底から否定するものであった。このため、朱子は、万民が等しく性善であるにしても、現実の人間には優劣があり、そのエリートこそが庶民を治め教えるべきだ、ということを理論づけようとした。/
士大夫の没落
北方の異民族の金国が皇帝を掠って、北宋が滅亡。1127年、帝弟が南京市に南宋を再興。天才的な博学で科挙を通った宰相の秦檜(しんかい、1091~1155)が軍閥主戦派を強引に排除し、42年、金国への服属という屈辱的条件ながら和平を実現。しかし、これによって南宋はこれまでの莫大な軍事負担を除くことができ、民間経済は劇的に回復した。
税補足されないような都市部の零細民間経済の発展で、政治的な免税特権に依拠していた地方の士大夫(地主商人官僚)の社会的地位は相対的に押し下げられた。とくに旧法残党の士大夫たちは、北宋滅亡の原因は新法であり、秦檜は売国奴である、と批判したために、軍閥主戦派とともに弾圧されるところとなった。
その中心となったのが、朱子(1130~1200)。ぎりぎりの成績で科挙に通ったものの、最初から地方の帳簿係に飛ばされ、早くも30歳で体調不良を理由に薄給名目職となって、故郷の崇安(武夷山市、福州市と南昌市の間の山奥)の紫陽書院に下がり、学問に打ち込んだ。おりしも秦檜が死去した直後でもあり、朱子は、旧法残党士大夫の巻き返しの期待を一身に集めることとなった。
朱子学の根底にあるのは、主流派の新学新法に対する思想的・政治的な批判である。王安石(1021~86)の新学は、周王朝の理想制度を論じた『周礼』(しゅらい)の斉民思想に基づく。彼は、『孟子』の万民性善説から、一国の下で万民はみな等しくあるべきである、とした。しかし、これは同時に、特権的な士大夫の存在を根底から否定するものでもあった。そして、実際、抑強扶弱を旨とする彼の新法の下で、中小の個人の農家や商人が大量急激に成長し、北宋の経済を劇的に隆盛させた。
王安石の同時代の旧法洛党の司馬光(1019~86)は、『孟子』を否定し、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、王安石の斉民思想を批判し、士大夫の必要性を説いてはいる。
哲学
2018.06.03
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2019.01.15
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。