/スピノザやニュートン、バークリー、そしてライプニッツの奇妙な神学が、ドイツ観念論のヘーゲルなどにつながっていく。そして、それが地上に引きずり落とされ、資本論や唯物論に展開する。つまり、神を否定することを含めて、近代になっても、結局、人は神の観念から逃れられなかったのだ。/
あなたわ、神お信じますか? なんていうのが、昔、街頭によく出没したが、最近もいるのだろうか。いまさら神もないだろ、と思うかもしれないが、神、という発想は、現代にも根深く残っている。もちろん、それは、もはや、やたら怒ったり愛したりするユダヤ・キリスト・イスラム教の神ではない。かといって、インドの鼻の長いのでも、日本のヤオヨロズのでも、まして、どこかのなにかおぞましい顔のでもない。なにかわからないが、人間を越え、世界を支配するものだ。
総称して、テイズムと言う。新旧両教の宗教戦争もすたれた、つまり、どちらも形骸化した1700年前後に、妙な神学がいろいろ出てくる。その代表的なのが、汎神論(パンテイズム)、理神論(デイズム)、知神論(反物論、インマテリアリズム)だ。スピノザは、この世界そのものが神だと言い、ニュートンは、神が世界の自然法則として支配しているとした。さらに、バークリーは、物を心に知覚させる神こそが唯一の実体だと考えた。
カトリックにしても、プロテスタントにしても、キリスト教では、人間を含め、世界は被造物であって、その創造主である人格的な神とは、絶対的な断絶相違があるとしてきた。そして、神は、創造と同様、気分次第で、いつでも被造物を消滅させることもできる、とされた。
ところが、スピノザは、汎神論として、この世界そのものが神だ、と言い出した。この唯一絶対の実体である神は、今風に言えば、電波や磁力、放射能など、きわめて多様な自然属性を持つが、それらのうち、観念と物体だけを、我々は認識する。そして、同じライヴパフォーマンスを、同時にカメラで撮って、マイクで拾えば、両者はシンクロするように、ここにおいて、観念と物体は、もとは同じ実体の属性だから、つねに並行一致していることになる。したがって、デカルト派が考えたような物心二元論の問題は起こりえない。
一方、ニュートンは、世界を死せるただの物体とし、これを生かし動かすために、神は世界に自然法則を与えた、いや、世界を支配する自然法則そのものが神なのだ、と考えた。言わば、世界はただのデータであって、そのデータを動かすプログラミング規則が神ということになる。我々、そして、世界が、どのように動かされているのか知る自然科学は、彼にと手、聖書以上に神を知る崇高な神学だった。
さらに、バークリーは、デカルトの「我思うゆえに我あり」を敷衍して、存在とは知覚だ(エッセ・エスト・ペルピキ)、と言う。だから、知覚される物体や観念ではなく、知覚する我こそが存在である、ということになる。ここを持って、彼の考えは、反マテリアリズム、と呼ばれる。がしかし、彼によれば、我もじつは知覚させられているにすぎず、この背景に、物体や観念を我に知覚させる神が、真の能動的実体として存在している。つまり、知覚させる神だけが真に実在し、知覚する個々の我、その我に知覚される物体や観念はまぼろしにすぎない。そして、この発想によって、彼はデカルトの独我論問題を解決できたと信じた。
哲学
2017.12.31
2018.06.03
2018.09.18
2018.09.25
2018.10.02
2018.10.16
2018.10.23
2018.11.06
2019.01.08
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。