/スピノザやニュートン、バークリー、そしてライプニッツの奇妙な神学が、ドイツ観念論のヘーゲルなどにつながっていく。そして、それが地上に引きずり落とされ、資本論や唯物論に展開する。つまり、神を否定することを含めて、近代になっても、結局、人は神の観念から逃れられなかったのだ。/
もっと斬新な発想を考え出したのが、ライプニッツだ。彼からすれば、デカルト派の物心二元論問題などというのは、モノに大きさがあるとするところから間違っている。また、ニュートンのように、大きさを微細に分割していく必要も無い。点が二つあれば、それはもう空間なのだ。我々ががさつにあれこれを大きさのあるモノと思っているだけで、それはじつはすかすかの点の集合にすぎない。おまけに、その点は、それぞれまったく独立に思惟し、表現を変化させる。これを名付けて「モナド」と言う。
古い教科書だと、微粒子、などと、わけのわからない説明が書いてあるが、微粒子もなにも、モナドは、粒子というような量的な大きさをまったく持たない。点としての位置でしかない。いや、現代の我々の方が、むしろライプニッツを理解しやすいだろう。経済などと言っても、それはマクロの見方で、実際は、ミクロに個々の取引があるだけ。それを我々ががさつに総和してしまうから、量になるだけ。
テレビの画面も、いかに細かいにせよ、液晶の三色の点が明滅しているだけで、ほんとうは、そこでなにも動いてはいない。洋服なども、見た目では一つの布だが、実際は、細かな繊維の集まりで、布目も、糸も、スカスカ。金属ですら、電子などが通り抜ける。実際、薄く叩き伸ばした金箔なんか、向こうがふつうに透けて見えてしまう。ようするに、量を分割するから、いくら微細にしても量なんで、逆に最初から、ばらばらな点の集まりが量だ、と考えてしまえば、すっきり解決。
ただ、ライプニッツのすごいのは、この個々の点が、眠っているだけのものから、記憶や反省し、思惟して欲求するものまで、いろいろだ、としたこと。ここでまた、奇妙な神が出てくる。これらの点は、他の点と独立離存で相互干渉しない、とされる。にもかかわらず、全体で一つの量的なマクロになるのは、このミクロの点が、それぞれに、神が思念する同じ最善の世界を内的に反映しているから。たとえば、時計は、砂や水、機械やクオーツなど、仕組みもさまざまだが、それぞれの場所で、それぞれ独立に動いて、地球の回転を反映している。経済なども、別に全員が連絡を取って示し合わせなくとも、それぞれが同じ成るべき世界を思って行動するなら、大きなトレンドを成す。
また、興味深いのは、スピノザやニュートン、バークリーの神が現実に関与するのに対し、ライプニッツの神は、モナド相互と同様、モナドに対して直接は干渉しないのだ。そうではなく、モナドの方が、神の考える「最善」の世界をプラトン的なイデア(理念)として、それぞれかってにそれを考えて行動する。だから、モナド相互に連絡しなくても、あたかも示し合わせたかのように、一致する。予定調和だ。
哲学
2017.12.31
2018.06.03
2018.09.18
2018.09.25
2018.10.02
2018.10.16
2018.10.23
2018.11.06
2019.01.08
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。