新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

画像: photo AC: himiko さん

2018.10.16

ライフ・ソーシャル

新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/

一方、同じ旧法党でも、あえて地方官として生きることを選んだ程顥は、自然を愛し、天理を学び、その中に「道」としての一体の気を直観的に感じ取り、庶民はもちろん世界の痛みや喜びを自分のものとする「仁」をめざした。ここにおいて、彼は、司馬光と違って、王安石が理想とした、性善説の仁を解く『孟子』を高く評価し、後に彼の思想は「道学」と呼ばれることになる。また、文人の蘇軾は、『孟子』は嫌ったものの、艱難苦境にあっても動じない内面の強さを磨くことを求め、儒学のみならず、道教や仏教をも学び、三教合一の「蜀学」を興した。


変転と混迷

85年、新法党を擁護してきた皇帝神宗が死去、新皇帝哲宗(てっそう)がわずか10歳で即位すると、祖母后が実権を握り、旧法洛党の領袖、司馬光(66歳)を宰相に。先に朝廷に戻っていた旧法朔党の劉摯らは、司馬光を焚き付け、新法および新法党の一掃を図る。洛陽出身の温和な程顥はあえて地方で学問に生きることを選んだが、その弟、程頤(ていい、1033~1107、52歳)は、もともと科挙に失敗して官僚にすらなれなれず、在野に埋もれていた。にもかかわらず、厳格な修養によって、だれでも聖人君主になれる、との屈折した考えを抱き、古代儀礼に執着拘泥した。博覧強記で復古主義の司馬光は、この程頤を好み、自分の後継者として強引に新皇帝の側近に送り込んだ。

しかし、翌86年、司馬光が死去。代わって融和寛容な旧法蜀党の蘇軾(49歳)が呼び戻される。彼らは新法にも一定の理解を示し、全面復古や派閥対立を好まなかったが、司馬光の意向を継いだ程頤は、新法絶滅はもちろん、それ以上に、現実の政治状況を無視したまま、学識の信念のみに基づいて古式回帰を強硬に主張し、蘇軾らは、やむなくこれを辞めさせた。しかし、これがきっかけでかえって旧法党内での派閥対立を起こしてしまい、新法党復帰を認め始めていた旧法朔党も反蜀党に回り、91年、蘇軾は失脚。94年、哲宗が親政を始めると、新法党が再び政権を握り、旧法三党を左遷追放。1100年、哲宗が死去し、弟の徽宗(きそう)が即位して、新法党でも穏健派に入れ替え、ようやく対立を収めようとしたが、容易な状況ではなかった。

もはや成り上がり官僚たちの新学新法が主流であり、地方名家だった旧法党の士大夫たちには中央官僚としての栄達の道は閉ざされた。しかし、ここにおいて「洛学」の司馬光の構想、士大夫こそが地方振興の原動力として必要とされている、との自覚が彼らに芽生えてくる。中央官僚として栄達せずとも、地方にあって一体の気を感じて天理を知る八条目の厳格な修養によって、天下を治めるに等しい聖人君主となれる、との程顥程頤兄弟の考え方は、彼らに新しい生き方を与えた。そして、ここに朱子学が生まれてくる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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