/天才に嫉妬した凡人、それどころか、神に愛された天才を引きずり倒した凡人の頂点、ということか。だが、このセリフも、あの信頼すべからざる偽悪家のサリエリが言ったとなると、真に受けるのはどうか。守護聖人は、神ではない。むしろ災厄において神へ取りなす者だ。つまり、ザラストロのような、人を神に繋ぐ者を言う。/
その揶揄は、サリエリにとって、言葉の意味以上の痛みとなっただろう。実際、モーツァルトの実子を含む多くの弟子がいたとはいえ、あのモーツァルトを越える逸材がいるわけもない。まして自分の作品は、彼の耳からすれば論じるまでもない駄作。二十年来、もう筆は止まっている。一方、モーツァルトの作品は、モーツァルト本人が死んでも生き続けた。時とともに理解を得て、ますます広まる。あの野卑な実父と同様、父たるにたらなかった野卑な自分こそが、音楽への愛ゆえに、モーツァルト、というより、音楽そのものを殺してしまった。あのとき、素直に彼を助け、あんな無理さえしなければ、作曲家としての名誉に預かれないまでも、モーツァルトの発見者、協力者、支援者としての栄誉は受けることができたはず。
1823年。サリエリ、73歳。三十年前と変わらず、大きな屋敷に住み、贅沢な菓子を楽しむ。いまなお宮廷楽長であり、諸外国の音楽協会でも名誉会員に列せられ、23年には楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)理事にも就任。だが、モーツァルトを失って、音楽を失って後は、すべてが空虚だった。その穴は、三十年を経ても埋めることはできなかった。史実としては、足の麻痺で10月にウィーン総合病院に入院。映画では、11月、突然に自殺を試み、精神病院に入れられ、この物語を告解したことになっている。
あなたの慈悲深き神は、凡人に天才の栄光のかけらを分けてやるよりも、その愛する天才を破滅させる方を選んだ。そして、やつは、私を拷問するために生かした。32年の拷問。自分が消え去るのをじっくり見せつけるという32年だ。このセリフは正確に理解されなければならない。サリエリは、あの日、一度は、せめて天才の栄光のかけらに預かることだけでも、と願ったのだ。にもかかわらず、その機会すらも奪われ、凡人としての存在さえも消し去られていく。
そして、続くラストシーンにおいて、彼は、車椅子で狂人たちの間を通り抜けながら、なおもうそぶく。世の凡人すべてに言おう、私こそが凡人の戦士、守護聖人だ。そこらの凡人たちよ、私がおまえたちを赦そう、おまえたちすべてを、と。ここで、戦士には、あえて「チャンピオン」という語が用いられ、翻訳では「頂点」が当てられている。原語でも、一般の「凡人」は、同じように「優勝者」のように理解しただろう。よくあるあらすじのように、天才に嫉妬した凡人、それどころか、神に愛された天才を引きずり倒した凡人の頂点、ということか。だが、「チャンピオン」の語源は二つあり、ラテン語を理解する神父に語るのであれば、ラテン語源で取るべきだろう。くわえて、それも、あの信頼すべからざる偽悪家のサリエリが言ったとなると、真に受けるのはどうか。
映画
2017.11.01
2018.02.28
2018.03.15
2018.05.12
2018.08.29
2018.12.07
2018.12.14
2019.06.08
2020.01.25
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。