/かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。/
/かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。/
夏の終わりに読むなら、小説は、これだろう。昨年のノーベル文学賞で、一躍、世界の注目を浴びるようになったが、作品が公表されたときから、厳格な執事を主人公とすることで、あえて感情を叙述しないというアイロニカルな叙情表現の技法が大いに注目された。
筋は、たわいもない。戦後、1956年の夏、英国の大きな屋敷は、米国人のものとなっていた。その主人は、自分が留守にする間、旅行してはどうか、と老執事に勧める。そのころ、屋敷は人手不足で、おりしもそこに以前の女中頭から手紙が来たので、老執事は彼女に、戻る気は無いか、聞きに行くことにした。その一週間の道中、彼は、23年の国際会議の日(=老実父が亡くなった日)と36年の四者会談の日(=女中頭が去ることになった日)のことを中心に、昔のことをいろいろ振り返る。それだけ。表向きには、たいした事件も起こらない。
話は、読者に対する老執事の一人語り。日一日と旅が進むにつれ、老執事の昔話も、数十年前から数日前までせり上がってくる。そして、その二つの話が交差し、明日を思うところで、話は終わる。現在進行形の物語と、過去の起因の物語と、二つの時間軸を用い、それがあい迫ってくることでクライマックスへと引き込む。叙述手法の定番のひとつだ。
問題は、老執事が自分で自分のことを読者に語るという形式であるために、旅はもちろん昔のことも、読者に対する自己弁護だらけで、いいようにねじ曲げられ、都合の悪いことは黙っていたり、忘れたり、それどころか、うまくすり替えられたりしている、ということ。なにしろ、この老執事が厳守しようとしている執事の品格というのが、どんなことがあっても、おおやけの場ではけっして執事としての制服を脱がないこと。つまり、この読者への語りもまた、制服を脱いで「個人的なあり方」をさらけ出すものではなく、あくまで執事としての「職業的なあり方」に常住した上でのもの。
ようするに、話がウソだらけなのだ。ところが、ウソは真実を隠すものであるがゆえに、ウソがウソとわかっているならば、逆にそこに真実を読み取ることができてしまう。このような読み方のヒントを、小説の中の語り手ではなく、メタの立場にある小説そのものの作者が、小説の中に劇中劇として隠し込んでいる。老執事の回想のひとつに、1923年に開かれた屋敷での国際会議があり、ここにおいて、米国上院議員ルイスが、陰でこそこそと仏人デュポン氏に主催者の主人の悪口を吹き込むのだが、最後には、デュポン氏が参加者たちの前に立って、主催者の主人への深い感謝とともに、ルイスの卑怯な振る舞いを暴き立ててる。つまり、ルイスのような者が語れば語るほど、逆にデュポン氏には、主催者の主人の真の心底を知ることができた、というわけ。
映画
2017.11.01
2018.02.28
2018.03.15
2018.05.12
2018.08.29
2018.12.07
2018.12.14
2019.06.08
2020.01.25
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。