カズオ・イシグロ『日の名残り』を読み解く

2018.08.29

ライフ・ソーシャル

カズオ・イシグロ『日の名残り』を読み解く

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。/

女中頭との関係も、そうだ。戦前も、毎夜、ココアを飲みながら業務連絡をするだけ、と言っているのは、彼だ。ほんとうに、それだけだったのか、そうでなかったのか、それは個人的なあり方の話でもあり、また、いまや彼女も夫がある立場でもあるので、そんなことを彼が読者に正直に話すわけがない。同様に、数十年ぶりに会って二時間ほどの歓談の後、バス停まで送った、もう生きて二度と会わないだろう、と、読者に言っているのも、彼。翌五日目については何も語らないが、わざわざ、二度と会わない、などと前日に言っていることからすれば、逆に、むしろ翌日も、もう一度、個人的に彼女と会った、と考える方が筋が通る。ただ、それは、もはや屋敷に戻る気があるかどうかを聞く職務的な面会ではないので、読者に語る必要は無く、また、語るべきではない、というだけのこと。

そもそも、彼自身の現状からして、ウソばかりだ。彼は、人手不足をいいわけにしているが、すでにミスを連発している。じつのところ、彼は、この自分の状況をよく理解している。だから、それを、けっして「なにか得体の知れない原因」(=老いと死)などではない、と強く否定する。しかし、わざわざ否定するということは、それが脳裏に浮かんでいる、ということを暴露してしまっている。とはいえ、執事である以上、それをそのまま読者に語ったりすることはあってはならないのだ。

1923年に老実父が亡くなって、いまは56年。33年を経て、老執事本人が、かつての父の年になり、もう耄碌して、もはやまともに執事の仕事をこなせなくなっている。主人が自分に旅行を勧めたのも、その留守中、自分をひとり屋敷に残しておくことを心配してでのことだろうことも、うすうす感づいている。

そして、自分の終わりを強く自覚しているからこそ、人手不足だからではなく、自分の後を継ぐ執事として、かつての女中頭に期待をつないでいる。それがムリなウソであることを、自分でもわかっていながら。しかし、こんな現実は、執事として読者に語ることは許されない。ところが、前の主人のことでも奇矯な村人スミスの姿を借りてなら語られるように、彼自身のことは、女中頭や老実父に色濃く投影されている。

女中頭の実際は、人生の中で紆余曲折はあったにせよ、いまは、優しい夫、結婚した娘、秋には生まれる孫、と恵まれている。にもかかわらず、老執事は、彼女が夫と別れたと思い込み、彼女からの手紙には「これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています」と書かれていたと言い張る。だが、真実は、彼こそが1936年に女中頭と別れたのであり、彼の眼前にこそ虚無が広がっている。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。