/かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。/
いや、彼の前には、もはや死しか残されていない。1923年のことを思い出して彼は言う、屋根裏の父の部屋は「刑務所の独房」のようだった、と。だが、女中頭の言葉からすれば、彼の個人的な食器室こそ、あまりに殺風景で、「まるで独房」であり、「死刑囚が最後の数時間を過ごす部屋」のようだった。彼も、彼の父も、一生を、死刑囚が最後の数時間を過ごすように生きてきたのであり、彼の父と同様、彼にもまた、ほどなくして、まさに得体の知れない死が訪れようとしている。ただ、彼は、そのことをけっして読者には語らない。死は、個人的なことで、執事としての職業は、主人を通じ、世界の車輪に係わる公的なものだからだ。
とはいえ、主人の国際的な政治活動が、じつのところ、道化の茶番であったとすれば、その茶番を全身全霊で支えた執事とは何だったのか。ユダヤ系使用人の解雇を主人が顧みて悔いたとき、彼もまたようやくその批判を語ったように、主人が戦後、亡くなる前に自分の失敗を認めた以上、彼もまた自分自身の人生の失敗を、むしろ直視することが、かつての主人の執事の職業的なあり方として求められていることを、ずっと自覚していた。
一方、戦後の米国人の新たな主人は、どうやら米国流に、執事の彼に冗談も期待しているらしい、と、彼は、この物語の当初から困惑している。だが、彼は、旅の終わりに至って、主人が期待する以上、執事の職業的な任務として、本腰を入れて「冗談」を研究しよう、と決意する。道化の茶番さえも支える冗談の人生を生ききること。「結果がどうあれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由」という。
かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。この小説は、すべてがウソだ。しかし、だからこそ、そこに真実が垣間見える。人生は、結果ではない。そして、結果を問わない以上、人生に成功も失敗もありはしない。成功も失敗も越えた、生きることの品格。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)
映画
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2020.01.25
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。