/かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。/
老執事は、戦前の屋敷の主人を、国際会議を開くほどの大物であり、世界平和を求め続ける偉人である、として、信頼し尊敬している、と読者に公言するが、それがウソである以上、それは、むしろ、その人が、茶番に奔走する小物にすぎず、平和どころかヒトラーの使いっ走りとなって世界を戦争に捲き込んだ「道化」であることがわかる。
そしてまた、老執事がこのようなウソをつくということは、老執事自身が、じつは、前の主人が小物で道化にすぎなかったことをよく理解している、ということにほかならない。ただ、執事という職業的なあり方を堅持するがゆえに、そのことを公言しないだけにすぎない。その主人がユダヤ系使用人をクビにすると言い出したときも、彼は、それをあくまで賢明な判断として女中頭に伝えており、その後、主人が翻意してはじめて、あってはならないことだった、と、本心を女中頭に語っている。つまり、いま、ここで老執事がいくら主人を褒めそやしても、それ自体が執事としての職業的な言葉であって、彼自身の個人的な言葉ではない。
実際、彼が現在の旅で訪れた村で出会ったスミスという男については、「一種の道化」と呼び、「しばらく聞いているぶんには、なかなか面白いんだが、よく聞いていると支離滅裂でね。ときには、こいつ共産主義者かと疑いたくなるようなことを言うが、つぎの瞬間には、とんでもなくコチコチの保守主義者になる」と、彼を酷評する医師の言葉をそのまま読者に伝えている。つまり、老執事は、相手が自分の職業上の主人でさえなければ、こういうまともな見識を持っている。
このことは、老執事が、個人的なあり方としては、きちんと、戦前の主人もまた、このスミスと同じ、いや、スミス以上にひどい「道化」であると、正しく認識していた、ということを意味する。ただ、まさに執事としての職業的なあり方として、酔っ払いの客人たちにからかわれたときのように、期待されているどおりのバカのフリを完全確実にして見せているにすぎない。このレトリックに騙されてしまうと、読者まで酔っ払いの客人たちのレベルに落ちてしまう。
旅の焦点となる女中頭との関係についても、同じことが言える。酔っ払いの客人たちのように老執事が語ることを鵜呑みにしていると、この老執事が女中頭の恋心もわからぬバカのように思いがちだが、しかし、彼は、恋心もわからぬバカであるかのようにビジネスライクに女中頭に対してふるまい、また、読者に対して語っているだけで、彼の個人的なあり方としては、当然、相手の気持ちはもちろん、自分の気持ちもよくわかっている。なにしろ、「個人的」な食器室で彼が愛読しているのは、じつは「おセンチな恋愛小説」。しかし、彼は、片時も、たとえ数十年たって読者に昔語りをするときでさえも、制服のボタンを緩めることはない。だからこそ、その向こうに、彼の言葉にできない、してはならないと彼がかたく心に決めている秘めた思いが透けて見える。
映画
2017.11.01
2018.02.28
2018.03.15
2018.05.12
2018.08.29
2018.12.07
2018.12.14
2019.06.08
2020.01.25
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。