映画『鎌倉ものがたり』と日本の移民問題

画像: 映画からの引用

2018.12.07

ライフ・ソーシャル

映画『鎌倉ものがたり』と日本の移民問題

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/縄文の時代から、日本は、渡来人も、南蛮人も、三国人も、進駐軍も、外人嫁でもなんでも、平気で受け入れ、もてなしてきた。いきりたって、外国人を入れろ、入れるな、と争うのとは、別の共生のし方があるのではないか。こんなことを考えながら、この映画を観てはどうか。/


芸術は表現だ。小説は、活字ではなく、その活字が表現するものを読まなければいけない。同様に、映画も、映像ではなく、その映像が表現するもの、映像に表現されるものを観なければならない。

『鎌倉ものがたり』は、もともとバブルの84年から月一の一話完結で『漫画アクション』に掲載されてきた西岸良平のまんがで、350話を超える。そのエピソードの登場人物を入れ替え、むりやり一つの話にしたのが、今回の映画。逆に言うと、映画の物語そのものは、原作には無い。共通しているのは、その世界観、独特のファンタジーだ。

ファンタジーは、基本的に二つのどちらかのスタイルになる。すなわち、現実の主人公が異世界を訪れるか、異世界の主人公が現実を訪れるか。たとえば、『不思議の国のアリス』や『ナルニア物語』は前者。『スーパーマン』は『ドラえもん』は後者。『ピーターパン』は、現実に異世界人が来て、一緒に異世界を訪れ、そしても現実に戻るいう複合型。だが、『鎌倉ものがたり』は、独特の現実異世界融合型、拡張現実的ファンタジーなのだ。なんとか戦隊や魔法少女もののように、人知れず異世界人たちが現実に入り込み、それと密かにある人々が戦っている、というのではない。「鎌倉」というところでは、異世界人が大勢いるのは、すでにみな周知であり、双方ともに平然と受け入れてしまっている。

映画というものは、まんが以上に、さまざまな人々による数多くの会議を経て作られる。しかし、なぜいまごろになって、『鎌倉ものがたり』は映画化されたのだろうか。脚本家がいるにしても、なぜそれで映画会社から銀行、スポンサー、配給会社まで、よし、とされ、多くの観客に受け入れられたのだろうか。そこには、かれらのだれも自覚しない、無意識のイメージが働いている。

目で見えるモノを追っていては、描かれているものが見えない。バブルのころから鎌倉で何が起こっていたのか。物語では、あえてさらに一時代前の60年代に設定されているが、バブルころ、あのころから鎌倉に外国人や観光客が大量に入り込んだのだ。土地が暴騰する一方、横須賀や国際村が近く、公費で外国人の士官や学者がおおぜい中に住み着くようになった。そして、週末ごとに有象無象の観光客でごった返すようになった。

米国では『猿の惑星』が黒人問題を、『MIB』が移民問題を、映像の背景に隠し込んでいたが、邦画の『鎌倉ものがたり』で妖怪として描かれているのもまた、じつは鎌倉がすんなりと受け入れてしまった外国人や観光客の「イメージ」だ。(だから、逆にまんがや映画では、数多くの妖怪が登場しながら、鎌倉には当然につきものの外国人や観光客は登場しない。)映画だと、それはまさに厄介な貧乏神として現れる。だが、主人公たちは、それをも受け入れ、もてなしてしまう。魔物たちと、同じ店で酒を酌み交わす。それどころか、主人公の両親は、黄泉の国(シンガポールか、台湾か)に移住してしまって、楽しく暮らしていたりするのだ。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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