/天才に嫉妬した凡人、それどころか、神に愛された天才を引きずり倒した凡人の頂点、ということか。だが、このセリフも、あの信頼すべからざる偽悪家のサリエリが言ったとなると、真に受けるのはどうか。守護聖人は、神ではない。むしろ災厄において神へ取りなす者だ。つまり、ザラストロのような、人を神に繋ぐ者を言う。/
この映画は、表向きは、凡人サリエリが天才モーツァルトに嫉妬して殺した、ということになっている。しかし、バカでなければ、そんな単純な話ではないことくらいわかるだろう。くわえて、サリエリは、もとより当時もモーツァルトを誑かすような、まったく信頼すべからざる人物だ。その彼が精神病院で神父に告白したことなど、絵にとして示されるとしても、まったくそのままそれが事実と受け取るにたるものではない。
仕事を得られず生活に困窮するモーツァルトを前に、サリエリはカネを貸したりはしない。だが、メイドを送り、仕事を与える。老サリエリの告白からすれば、それは内情を探り、作品を盗むため。しかし、それは彼の最後のプライドが言わせる偽悪的ないいわけだろう。彼はなによりモーツァルトの音楽に近づきたかった。そのためには、持てるだけのカネを注ぎ込んでも惜しくはないと思っていた。だから、いっそ大金でも貸し付けた方が、彼の告白どおり、モーツァルトを追い込み、潰し去ることができたはずだ。にもかかわらず、そうしなかったのは、むしろ彼がほんとうはモーツァルトを追い込み、潰し去ってしまうことを恐れていたからではないのか。
同様に、なんらかの方法でモーツァルトを殺して、その葬儀でうんぬん、と、老サリエリは言うが、それは本心だったのか。サリエリは『魔笛』でもよかった。だが、それではカネにならないこともわかっていた。だから、ありきたりに彼の父のために『レクイエム』を書く仕事を与えた。だが、それは、サリエリが考えていた以上に、モーツァルトを追い込んだ。むしろサリエリよりも、モーツァルト自身の方が、それを自分のレクイエムだと思っていたのではないか。音楽を教会や宮廷から解放する。言うはたやすいが、この試練は、まだ時代が早すぎた。いくら世俗の人気を得ても、生活が成り立たないのだ。潰れるのは、もはや時間の問題だった。
だが、サリエリは気付かない。ただ彼の曲を早く聞きたいばかりに、ただ純粋な音楽への愛ゆえに、彼を急かす。しかし、その思いは度を過ぎた。サリエリの音楽愛こそが、その音楽の源泉であるモーツァルトを殺してしまったのだ。老サリエリは、32年も後になって、もともと殺そうと思っていたのだ、などと、うそぶく。それなら、なにも告解などするまでもない。うまくいって喜ぶべき話だったはずだ。
諸事情で忌むべき人物とされたモーツァルト(享年35歳)の未完成の遺作『レクイエム』。史実からすれば、自分の才能の限界を知るサリエリ(41歳)が、自分の弟子ジュースマイヤー(25歳、1966~1803)に補筆させ、二年後に初演。そして、さらに三十年。映画では描かれないが、この間、サリエリは、ベートーヴェンなど、多くの若手を指導した。謝礼すらも受け取っていない。それどころか、経済的な支援もしている。晩年に至るまで、ウィーンにおいてまさに「音楽の父」と呼ぶにふさわしい大きな存在だった。だからこそ、彼のその大きな存在を快く思わない新世代の連中から、彼がモーツァルトを殺した、などと揶揄されるようになったのだ。
映画
2017.11.01
2018.02.28
2018.03.15
2018.05.12
2018.08.29
2018.12.07
2018.12.14
2019.06.08
2020.01.25
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。