/天才に嫉妬した凡人、それどころか、神に愛された天才を引きずり倒した凡人の頂点、ということか。だが、このセリフも、あの信頼すべからざる偽悪家のサリエリが言ったとなると、真に受けるのはどうか。守護聖人は、神ではない。むしろ災厄において神へ取りなす者だ。つまり、ザラストロのような、人を神に繋ぐ者を言う。/
とはいえ、この態度は表裏一体だ。こと音楽に関しては、モーツァルトは真に返り、どんな権威の介入も許さず、命を削っても全身全霊で打ち込む。これに比してサリエリは、モーツァルトの作品を盗んでさえも、大衆の人気を手に入れることこそが最終目的。ご都合主義に神に祈ることはあっても、宮廷や劇場を出入りするばかりで、ひとり練習研鑽に励むことなどない。ようは、彼にとって音楽は、野卑な生まれの自分が神に近づくための手段にすぎない。
結局のところ、モーツァルトは、カネになる『レクイエム』よりも『魔笛』を優先する。そして、ようやくその初演に漕ぎ着けたものの、その最中に倒れ、居合わせたサリエリが連れ帰り、徹夜で『レクイエム』の作曲を手伝うが、翌朝、未完成のままモーツァルトは死んでいた。映画では問題の事情が省かれているが、盛大な葬儀など行われず、近親者のみが見送った後、死体は共同墓穴に放り込まれる。
モーツァルトと父
それにしても、モーツァルトは、なぜ父を恐れたのか。たしかに厳格で、彼を「天才」に仕立てたが、暴虐なわけでもなく、ウィーンに来て、ザルツブルクに帰れ、とは言うが、無理強いをするわけでもない。それどこか、彼がかってに結婚した幼い新妻のせいで荒れたままの家にあって、文句を言いもせず、寝室に籠もっている。しかし、だからこそ、モーツァルトには父が怖かったのだろう。パーティでも、彼は父に、僕に罰を、と叫び、曲芸ピアノを演奏する。それは、以前から音楽こそが父をなだめる手段であったことを思わせる。
では、モーツァルトの中では、父は、荒ぶる神だったのか。それも違うだろう。サリエリが『ドン・ジョバンニ』で、放蕩の主人公を諫めに来る石の騎士に、彼の亡き父を見たというのは、間違ってはいまい。だが、それを出現させたモーツァルト自身が亡き父の魂をなだめるために作ろうとしたのは、凡庸なサリエリが考えたようなありきたりの『レクイエム』などではなく、『魔笛』なのだ。つまり、そのザラストロこそが、石の騎士と同じ亡き父の姿であり、モーツァルトにとっての亡き父へのレクイエムは、『レクイエム』ではなく、『魔笛』だったのだ。
ザラストロは神ではない。神に仕える者、あくまで人間であり、死の訪れを知っている。だからこそ後継者を必要とし、沈黙の試練、火の試練、水の試練を主人公タミーノに強いてきた。この関係は、言うまでもなく、モーツァルトと亡き父のアナロジーだ。ザラストロは、前半、娘を掠った悪魔として登場する。だが、後半、タミーノは、ザラストロの意図を理解し、進んで試練を受け、みずから後継者になろうとする。
映画
2017.11.01
2018.02.28
2018.03.15
2018.05.12
2018.08.29
2018.12.07
2018.12.14
2019.06.08
2020.01.25
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。