/魂は、心身を統合する責があるが、人は、心で責を知っていながら、身体ではやらない。くわえて、魂は、一生に首尾一貫した整合性をなす責もあるが、これもつねに脅かされている。キルケゴールは、この重責から目を背けたり、この重責を一人で背負い込んだりするのではなく、神の定めた摂理の中での自己実現を求めた。/
逆に、棄教は魂を無、無意味にします。したがって、それは命に関わる病です。第一部では、彼はまず魂による統合の形式から考察しました。それが無限だと、外向きの関心が魂を薄めます。対照的に、有限の統合は、魂をわずかなつまらないもので満たします。また、可能性だけを統合すると、魂は現実を失います。かといって、必然に陥ると、人生を統合する魂そのものを失います。次に、キルケゴールは意識の側から棄教を考察しました。棄教には三つのレベルがあります。棄教に無自覚なこと、世俗的または天上的なものに逃避すること、そして自己に執着することです。
「彼は適度の制限と可能性を伴う、摂理での自己実現を求めたんだ」
ええ、適切さや妥当性は重要です。第二部では、摂理のルールに反して、かってに自分にならない、または、かってに自分になろうとすることが、棄教の罪だ、と彼は主張しました。ソクラテスは、ルールを知らないから、人はそうしない、と言いましたが、キリスト教は、ルールを知っているくせに、人はそうしない、と考えます。それゆえ、罪は積極的で、絶対的に個々の単独者のものです。その罪は二重で、責任に対する棄教、その許しに対する棄教です。にもかかわらず、今日の人々は、無関心や傍観、反駁で、かえってキリスト教につまずいています。
「それ、教会批判としては弱いみたいだけど」
じつは、弾圧を恐れて、彼は原稿を分割していて、これは前半のみでした。1848年のフランス二月革命の結果、デンマークの新国王も、宗教の自由を保障し、国立教会を国民教会に再編する憲法を起草せざるを得なくなりました。キルケゴール(37)は、ようやく1850年に『キリスト教の実践』として後半を出版しました。そこで彼は、シュトラウスやフォイアーバッハのような合理的説明を批判し、逆説的な啓示への質的飛躍を人々に求めました。
哲学
2024.09.19
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2025.04.08
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
