/魂は、心身を統合する責があるが、人は、心で責を知っていながら、身体ではやらない。くわえて、魂は、一生に首尾一貫した整合性をなす責もあるが、これもつねに脅かされている。キルケゴールは、この重責から目を背けたり、この重責を一人で背負い込んだりするのではなく、神の定めた摂理の中での自己実現を求めた。/
「思い通りに動けないキルケゴールにとって、心身の分断は、デカルトの二元論より切迫していただろうね」
第三巻によると、認知的であろうと実践的であろうと、魂は、心と体を再結合しようとするものの、それが失敗する毎回の不安だけでなく、普遍的整合性を失う不安にも脅かされます。異教徒のように、偶像盲信は心身の不安を取り除くかもしれませんが、それは自己整合性の魂の不安を隠しています。また、幸運が心身の不安を満たしたとしても、その人は内なる整合性を欠いていて、魂の不安とともに時間の中に限定されています。対照的に、敬虔な人は、魂の不安ないしその混乱で罪を認識し、魂の責任を内省し、むしろ時間の制約を超えた自由を見つけます。
「キルケゴールは、カントの認知的統覚を宗教的実存に変えた」
心身の不安は、自分自身との内的弁証法による認識や実践の成功で解決されるかもしれませんが、それはたんにに次の心身の不安に陥らせるだけで、魂の不安として、自己整合性もあいかわらず脅かされています。しかし、第四巻が言うように、これらの不安が恐れているのは、罪の可能性にすぎず、回復の自由も示しています。にもかかわらず、これらの不安のために、人は奴隷として罪に留まり、悪いことばかりか善いことさえせず、ソクラテスのように退屈つぶしに甘んじます。善を行う自由を妨げる魔は、心か体の単独暴走かもしれません。また、魂は絶対の単独者で、一般形式を適用できないため、内的な真剣さのない外向きの詭弁や偽善は、魂を魔的に傷つけます。
「キルケゴールは、ソクラテスの揚足取りやヘーゲルの大言壮語がほんとに嫌いだったようだ。でも、罪の出口はどこにある?」
あるべきではないものになるかもしれないという罪の不安は、逆に、あるべきもの、つまり摂理(Forsynet)を示しています。それは、単独者が心で知るべき、体で行うべき、魂であるべき善です。摂理において単独者が絶対的に唯一無二である以上、そのその人が知るべきもの、すべきもの、あるべきものも、それぞれ絶対的に異なります。しかし、信仰とともにそれに飛び込むとき、その人は心身の統一と魂の整合性を取り戻し、摂理の中の永遠の平和に帰ることができます。
「フォイアーバッハは人間の類的本質を私たちの故郷とみなしたけど、キルケゴールは私たち一人ひとりが神の世界の中のそれぞれのアイデンティティに戻ることを考えていた」
しかし、それは、量的な累積ではなく、質的な飛躍によってのみ実現します。彼はそれを神との質的弁証法と呼びました。
哲学
2024.09.19
2024.09.22
2024.11.24
2024.12.02
2024.12.09
2025.02.01
2025.02.17
2025.03.31
2025.04.08
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
