/魂は、心身を統合する責があるが、人は、心で責を知っていながら、身体ではやらない。くわえて、魂は、一生に首尾一貫した整合性をなす責もあるが、これもつねに脅かされている。キルケゴールは、この重責から目を背けたり、この重責を一人で背負い込んだりするのではなく、神の定めた摂理の中での自己実現を求めた。/
「あいわらず、平和からほど遠い人だ」
24.5. あれかこれか
「で、われらがキルケゴールはどうなった?」
1830年にコペンハーゲン大学に入学したものの、多くの金持子息たちと同様、怠惰な生活に浸っていました。しかし、彼が「大地震」と呼ぶ出来事が彼を襲いました。1835年の夏、父親(79)は彼(22)を北部高級リゾート地に送り、若きキルケゴールはそこで限られた残りの人生を生きる意味を探しました。一方、すでに二人の妻と五人の子を亡くした老いた父親は落ち込み、家族全滅というこの運命を、自分の多くの背教の罪に対する神の呪いと解釈しました。
「あのパンケーキのような砂地の草原には地震はないでしょ。それはむしろ彼の悪性のめまいだろう。身体の成長が止まって、クル病の小さな頭蓋骨が脳を圧迫し始めたのだろう。一方、一代で財を成した彼の父親は、これまでよほどひどいことをしてきたにちがいない」
キルケゴールは少女を愛し、懸命に勉強しました。父親を亡くしましたが、学位を取得し、1840年に神学者国家試験にも合格しました。彼(27)は亡き父の故郷を訪れ、父親のような悔いのないまっとうな人生を送ろうと誓い、彼女と婚約しました。ところが、将来の不安から、1841年に一方的に婚約を破棄し、ベルリンへ去ってしまったのです!
「彼女は彼の希望だったからこそ、不幸にしたくなかったのだろう」
シェリング学長(66)は、すでにベルリン大学からヘーゲル派を追放していました。キルケゴールは以前からヘーゲル派が嫌いでしたが、ヘーゲル派を否定するだけのシェリングも、キルケゴールが先の学位論文で批判したソクラテスに似ていて、失望しました。ソクラテスはソフィストの偽りの権威を倒したかもしれませんが、キルケゴールに言わせれば、それはソクラテスの役立たずのただの暇つぶしでした。
「キルケゴールはニヒリストだな」
デンマークに帰国したキルケゴールは、1843年に偽名で『あれかこれか』を出版しました。この本は、著者が中古の机で見つけた結婚に関する文書集という体裁でした。第一部は無名の机の元の持ち主のエッセイを含み、第二部はウィリアム判事から机の持ち主への手紙から成り立っていました。
「この本はプラトンの対話編のようなメタ構造か」
演劇に言及しながら、机の元の持ち主は、結婚について考えた結果、飽きないように、結婚せずに相手を変え続けるのがいちばんだと結論づけ、その実例として、婚約破棄したジョンの日記を添えました。ウィリアム判事は、彼に悔い改めるよう説得するために、結婚のありふれた素晴らしさを説きました。しかし、キルケゴールの論点は、あれかこれか、ではなく、どちらでもない、というものでした。形式的に考える耽美主義も思弁主義も、具体的な当事者個人を見落としています。にもかかわらず、浅はかな読者たちは、キルケゴールが前者を戒め、後者を推めている、と誤解しました。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
