イソクラテスとプラトン:衆愚時代の青年教育の模索

2024.05.29

ライフ・ソーシャル

イソクラテスとプラトン:衆愚時代の青年教育の模索

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ペリクレスによるアテネの劇場型民主政は、疫病と敗戦で、目立ちたがりのデマゴーグ(大衆扇動家)たちやソフィスト(学識僭称者)たちに引っかき回されて迷走する衆愚政に陥った。ここにおいて、まともな青年教育を担おうとするイソクラテスとプラトン、両者の学校が大いに期待を集めた。/

「名家の出のプラトンは、もともと民主主義を嫌っていたでしょう」

彼は共和制や貴族制すら否定しました。黄金の民の中で最も優れた者は、善そのものを体現する「哲人王」になるべきだ、と彼は考えました。彼はそのことを三つの例えで説明しました。まず、太陽の比喩によって、すべてのものは太陽に照らされて初めて見えるのと同様に、物事は善のイデアによってのみ認識できる、と主張しました。次に、線分の比喩で、視覚と知識の比率と同じように、視覚には印象と存在があり、知識には暫定と真実があることを示しました。

「なにを言いたいのか、まだわからない」

最後に、洞窟の比喩で、私たちは実際には洞窟の囚人であり、模造品が私たちの後ろを通り過ぎるので、壁にはたき火によって作られた彼らの影だけが見える、と彼は言いました。誰かが外に逃げますが、そこでは太陽が明るすぎるので、影を追うことで、本物をかろうじて知ることができます。彼は洞窟に戻り、かつての仲間たちに外の真実を告げます。しかし、彼らは彼のことをほとんど理解できません。

「なんだか悲観的ですね」

そう、知識が各人の想起によってのみ得られる以上、たとえ哲人王が善を知ったとしても、それを人々に伝えることはできないのです。そこで彼は『テアテトス』と『パルメニデス』を書き、一から多を導き出す共有理論を模索しましたが、完成させられませんでした。

「それがピタゴラス的論理学ですか?」

北方の蛮族マケドニアはプラトンを政治顧問として招聘したいと考えていました。しかしちょうど前367年、シラクサの僭主ディオニュシウスが突然に亡くなり、28歳の新王ディオニュシウス二世の教育を頼まれ、60歳のプラトンはシラクサに向けて行ってしまいました。そこでマケドニアは、代わりに17歳の有能な青年アリストテレスをプラトンのアカデミアに留学させました。

「政治理論がまだ完成していないにもかかわらず、プラトンはそんな大役を引き受けた?」


二人の晩年

「で、プラトンはディオニュシウス二世の教育に成功しましたか?」

いいえ、彼はプラトンを崇拝したものの、結局は父親と同じ暴君になってしまいました。こうして、プラトンの権威は失われ、プラトンの許可もなしに、彼の留守中に弟子になったマケドニアの優秀な若い学生、アリストテレスが、前360年頃、アカデミアでイーソクラテス流の演説法の講義を始めます。

「学生たちからも侮られたプラトンは、よほど耄碌していたのでしょうね」

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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