/根本にあるのは、生存意志、つまり自己本位の欲で、事実の認識なんて、それに合うように捏ち上げられているだけ。どんな物語(世界)を出してきたところで、どれが「正しい」かは、力づくで強引に決めつけられるだけ。結局、だれかが納得せず、永遠に物語の闘争が続くだけ。しかし、物質的自然そのものも生存意志を持っており、暴力的かつ無目的に歴史を紡ぎ出していく。/
昔は、デカルトやカントと並んで必読書だったのだが、最近は、あまり聞かない。たしかに、ショーペンハウアー31歳の時の若書きで、余談が多く、冗長で、全体像が掴みにくい。それで、大学の哲学の研究者でも、どうもまともに読んでいない小僧が少なくなさそうだ。しかし、ワグナーやトーマス・マン、日本でも森鴎外や芥川龍之介など、多くの芸術家や作家に影響を与えた一冊で、いまでも充分に意義がある。
芥川の『藪の中』(1922)なら、みな知っているだろう。黒澤明が戦後1950年に『羅生門』として映画化し、見えるモノも信頼にたらない、という映画の根本をひっくり返す技法で、ロバート・アルトマンをはじめとして、映画関係者に大きな衝撃を与えた。映画版の方であらすじを説明しよう。平安時代末、荒廃した羅生門に杣売り(薪拾い)、旅法師、下人(荘園使用人)の三人が話している。杣売りと旅法師は検非違使(裁判所)の帰りだった。というのも、杣売りは、山中で見つけた武士の死体を届け出て、その犯人、山賊の取り調べに立ち会わされたから。
山賊が話すに、彼は武士の妻の女を見かけて強姦。女は、山賊と武士の勝った方に付いていくと言うので、二人は正々堂々と決闘し、武士を倒して山賊が勝ったが、女は逃げてしまっていたそうだ。ついで、その女が証言する。強姦された後、山賊は立ち去り、夫の武士を助けたが、自分を汚れたもののように見る目に耐えられず気絶。気づいたときには、武士は短刀が刺さって死んでいたのだとか。さらにイタコが来て、死んだ武士を呼び出す。彼の妻は、山賊にほれ、夫の自分を殺すように頼んだ。山賊は呆れて、武士に、むしろ女を殺そう、と言うものだから、妻は逃げ、山賊も消え、残された自分は無念のあまり、自害した、とのこと。
ところが、じつは杣売りは、一部始終を見ていた。実際は、山賊が女に付いてくるように懇願したものの断られ、女は夫の武士を助けたものの、彼は、付いてくるな、死ね、とまで言う。女は、かってな男たちを罵り、二人をむりやり斬り合わせる。が、両者ともまともに戦ったことなどなく、みっともなくのたうちまわり、ついには武士が死んでしまう。女は恐ろしくなって逃げ、山賊は人を殺してしまったことにおののいて茫然自失。
では、杣売りの話が真実か。そのとき、門に捨てられていた赤ん坊が泣く。下人はその産着を剥ぎ取る。それを杣売りがなじると、おまえこそ武士の死体に刺さっていた短刀を奪ったではないか、と言い返す。そして、杣売りも赤ん坊に近づくものだから、旅法師は、肌着まで盗るのか、と怒るが、いや、自分の子として育てるのだ、というのを聞いて、旅法師は杣売りを疑った自分を恥じる。
哲学
2023.05.28
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2024.05.29
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。