/西部開拓というと、西部劇で見るように、「インディアン」の襲撃を受けながらも、人々が西へ西へと押しかけ、太平洋にまで至って終わった、かのように思うかもしれない。だが、西部劇に出てくる無法の「西部」は、アリゾナ・ニューメキシコ準州での、1880年前後のほんの数年の出来事だった。/
それより西は、農業も放牧もできない、野生のバイソンの大群が暴走するだけの、乾ききった果てしない大平原(Great Plains)。その先には4000メートル級のロッキー山脈の壁が立ちはだかる。しかし、さらにその向こうには太平洋の温和な気候を受けた標高1000メートルのオレゴン高地があることがわかると、それでも人は夢を追い続けた。1843年、いくつもの川を渡り、大平原とロッキー山脈を越えていく「オレゴン・トレイル」が開かれ、人々はミシシッピー流域を捨てて、さらに西の新天地をめざし始める。
中西部北部で急成長する武装保守教団モルモン教のジョセフ・スミス・ジュニアが、みずから大統領になって合衆国をモルモン化すると宣言すると、いよいよ世間の反発が高まって、ついに逮捕。44年、獄中の銃撃戦で殺されてしまう。おりしも、45年、米国はテキサス共和国を併合。くわえて、メキシコが中西部インディアンと通じる「スパニッシュ・トレイル」を潰すべく、メキシコの西沿岸部カリフォルニア地方を奪取しようと、米墨戦争(1846~48)を起こす。
ここにおいて、米国は、国家反逆的な武装モルモン教団に政府への忠誠を示すように求め、教団のあるインディペンデンス市(現カンザスシティ東部)からドッジ砦、ベント補給所などを足場に、西へ向かう「サンタフェ・トレイル」を切り拓かせ、インディアンとの交易を断ち切らせる。また、テキサス西部では、ロッキー山脈を西に越える要衝、メキシコ軍のツーソン砦も奪取し、これによって、サンタフェからエルパソ(現シウダートファレス)に至る山脈以東の高地、ニューメキシコを米国の領土に加えることとなった。
しかし、この後、モルモン教団は、合衆国に愛想を尽かし、社会や政府の干渉を避けるべく、まだ米国ではないところに独自国家を建設しようと、ロッキー山脈の向こうをめざした。こうして、47年、信者七万人が、プラッテ川沿いに西進。サンタフェから帰還した武装モルモン大隊と合流して「モルモン・トレイル」を切り拓き、山脈を越えて、広大なネヴァダ(大盆地)砂漠に臨むソルトレイクにたどり着く。この乾燥する谷間に、彼らはソルト湖やユタ湖から潅漑用水を引いて、しだいに農地に改良していく。
ジェームズ・マーシャルは、ミシシッピー流域でマラリアにかかり、その療養のため、オレゴン・トレイルの駅馬車で西海岸に至り、米墨戦争に従軍した後、カリフォルニアの製材工場に勤めた。その彼が、1848年、工場の水車の溝で砂金を見つける。この話は、またたく間に全米に広まり、「フォーティナイナーズ」として30万人もがカリフォルニアに押しかけた。いわゆる「ゴールドラッシュ」だ。しかし、採鉱地を自分のものにするのは、早い者勝ち。そこで、彼らは船でパナマに向かった。そして、陸路で太平洋側に出て、ふたたび船に乗ってサンフランシスコに行き、ここから古い「シスキュー・トレイル」をたどって川の上流に分け入っていった。
歴史
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2023.11.05
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。