/この数年、コロナ騒ぎで中止されていた盆踊りも、今年はようやく各地で再開されるらしい。だが、みんなで踊れない音頭は、音頭ではない。亡くなった人々、いまともにある人々、夏の夜、音頭に身を委ねて、人の慈悲を思い出すのでなければ、盆踊りではない。/
幕末、彦根のある板前が、この祭文音頭にのめり込んだ。だが、彼の体には、もとより鐘や太鼓を用いた京都近江の念仏踊り(空也上人由来の古いもの)が染みこんでおり、これを祭文音頭に取り込んで、「よいと、よいやまか、どっこいさのせ」という合いの手とともに、みんなで輪になって踊るリズミカルな「江州音頭」(ごうしゅう、近江のこと)に発展させた。これが人気になって、周辺各地の盆踊りに呼ばれるようになり、さらには行商の近江商人によって近畿全域に広まって行く。
これが、明治には、文明開化の上阪者で賑わう大阪の寄席にも上ったが、路傍での仏法説教から発展して、ほんものの三味線を伴奏に七五調で義理人情のクドキをねっとりとうなる大道芸の「浮かれ節」が「浪曲(浪花節)」と名を変えて寄席に出てくると、江州音頭は影が薄くなる。そもそも偽山伏の祭文由来の武家の仇討ち話など、商人の町、大阪、それも明治の世では、難しかったのだろう。
寄席・レコードと河内音頭
映画の登場で落ち目になっていた寄席が、女性がスソをまくって踊るエロチックなバーレスク、安来節で勢いを盛り返すと、吉本興業は東京にも進出し、1937年、浅草でハイカラなヴォードヴィル(ミュージックショー)バンドの「あきれたぼういず」を売り出す。軽妙な演奏を交えたしゃべくりは、レコードやラジオにも最適の素材で、ホンモノを見ようと、全国から多くのファンが寄席に押しかけた。
ところが、わずか二年後、彼らの人気を知った新興キネマ社(後の大映)が四人うちの三人を映画スターとして引き抜いてしまう。吉本に残った川田義雄は、実弟らと新たに「ミルクブラザース」を組み、「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう」と、ギターを伴奏に広沢虎造風の浪曲調でうなって、寄席に、映画に、大活躍。ボーイズブームを巻き起こし、戦後のかしまし娘やクレージーキャッツ、玉川カルテットなどの道を開く。
このボーイズブーム、ミュージックショーが人気となる中、初音家一門が「浪曲音頭」として、「えんやこらせー、どっこいせ」の合いの手とともに、当たり浪曲の演目を音頭にして寄席に乗せる。また、地元で「河内音頭」を歌っていた八尾市役所の職員、鉄砲光三郎(てっぽうみつさぶろう、1929~2002)もプロに転向し、太鼓、三味線とともに大阪新世界の寄席に出るようになる。そして、61年、ミリオンセラーのレコード『鉄砲節河内音頭』を当て、できたばかりの関西のテレビ業界にも進出して、看板番組まで持つ。
解説
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2023.10.28
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。