/戦中世代がPTSDによって戦前戦後の恐怖に精神的に強迫され続けたのとは方向が逆ではあるが、いまの我々もまた、戦後コロナ前の繁栄の期待に心を支配され続けている。コロナさえ収束すれば、あの賑わいと活気に溢れた「現代」の大衆社会が復活する、とかってに信じている。しかし、それももまた、一種の強迫観念であり、同じ worrying だ。/
これに対し、カーネギーは、嫉妬は賛辞、と言う。もともと絡むために絡んでいるのだから、まともに反論したところで納得するわけもなく、ただ、笑え、と勧める。そもそも、注目すべき有名人の言行と違って、どうでもいい絡む側の批判など、まともな連中は最初から読み飛ばしている。にもかかわらず、こんなふうに問題とされているではないか、などと無名人の批判を取り上げて騒ぎ立てるのは、自分自身で批判する度胸さえも無い、さらに卑怯で矮小な連中。それより、的を射ている話なら、自分で素直に反省して、次に生かせばいいだけのこと。
カーネギーの前、フランクフルト学派として米国に亡命したエーリヒ・フロム(1900~80)もまた、『自由からの逃走』(1941)として、ドイツ国民が空白の自由の孤独と責任を自分で担い切れず、ナチスの権威へ委ねてしまった心理的メカニズムを分析している。また、カーネギーの後、シカゴ大学の社会学者、デイヴィット・リースマン(1909~2002)もまた、『孤独な群衆』(1950)や『群衆の顔』(1952)で、伝統指向、内部指向、他者指向という社会性格の発展概念を打ち出している。それによれば、社会は伝統に同調する服従にまどろんでいたが、独自の権威を持つ「親」が新しい価値観を打ち立て、その声を内化した羅針盤に従う新世代が新時代を切り拓く。しかし、その他大勢は、変動の方向を捉えきれず、レーダー型として周囲への同調を模索する、と言う。
実際のところ、中世から近代に至るヨーロッパの大きな歴史では、リースマンの言うとおりだが、米国の場合、まともに伝統が成り立つ間もなく、鉄鋼王や鉄道王のような内部指向のタイクーンが登場する一方、庶民は、新たな移民コロニーで周囲の人々の顔色を伺う生活を強いられた。まして、それが二つの大戦と大恐慌でシャッフルされ、再分断されたため、いよいよ新しい街の新しい職場や地域で、外側からも強い同調圧力(peer pressure)にさらされた。
つまり、カーネギーがこの本で問題にした worrying は、内側から本人が強迫観念に執着しているというだけでなく、外側、周囲の人々から文字通り執念深く強迫されたものでもあった。ここではもはや、スマイルズが『自助論』で掲げたような、羅針盤型が自由に羅針盤型でいられたフロンティア開拓時代の英雄たちが活躍できる余地は無かった。日本語のことわざと同様、まさに、出る杭は打たれる、で、それも、その圧力は、匿名性と暴力性が新聞と雑誌の印刷機で大量に増幅されていた。
哲学
2020.12.08
2021.03.12
2021.04.05
2021.07.29
2021.10.20
2021.11.13
2022.02.16
2022.03.08
2022.04.03
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。