/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/
ハットゥシャ新王国は、この鋼鉄によって、青銅器よりも強靭な武器と、馬の疾駆にも耐えられる戦車を作った。ただし、この戦車は、二輪で、馬につなぐ轅(ながえ)棒は中央に一本のみ。その左右に馬を二頭立てでつなぐ。というのも、当時、馬はまだ胴首輪のみであり、手綱で左右それぞれの馬の速度を制御することによってしか曲がれなかったから。
それでも、鉄製武器とともに、鋼鉄で補強された戦車は、小石だらけのシリア平原で、圧倒的な力を発揮した。ハットゥシャ新王国は、前1330年ころにはミタンニ王国を征服、さらに前1274年ころには、2500両の戦車で、その背後にいるエジプトを地中海東岸カデシュの戦いで撃破。だが、エジプトは、レバノン北部の森の遊牧民アムル王国や、イタリア・ギリシアから来た海の遊牧民「海の民」を傭兵として反撃。戦況は膠着し、平和条約が結ばれた。
ところが、この後、「海の民」は、前1230年ころ、ギリシアのミケーネ文明を崩壊させ、その残党を吸収して地中海東岸への上陸侵入襲撃も激しくなり、ついには前1190年ころ、ハットゥシャ新王国を滅ぼしてしまう。さらにエジプトを攻撃して、これを地中海東岸から退け、前1080年ころ、東岸パレスティナにペリシテ人として住み着き、現地のイスラエル人を奴隷にしていく。これにイスラエル王国初代サウルが戦うも破れ、前995年ころ、ダビデ王が立って対抗。
これと前後して、足踏み紐引上げを左右交互に行う革張双壺フイゴが発明され、自然の季節風に頼らなくても、小型の高温炉で鋼鉄がどこでもつねにかんたんに作れるようになり、世界は鉄器時代を迎える。また、インダス文明の衰滅でインド洋貿易ができなくなった紅海のセム語系フェニキア人が、混乱する地中海東岸に入り込み、各種の残存勢力を取り込みつつ、イベリア半島まで地中海全域に及ぶネットワークを張り巡らし、海運貿易商人として活躍するようになった。
中央アジアと天山山脈の諸民族
ヘロドトスの『歴史』によれば、前十世紀以前、中央アジアには、諸民族がいた。西から、キンメリア、スキティア、マッサゲティア、アルギッピア、イッセドネス、アリマスピア、グリフォンの地、ヒュペルボレウス。その比定地には諸説あるが、これがユーラシアハイウェイに沿っているとすると、次のようになる。
まず、キンメリア人は、ウラル山脈・ヴォルガ河の東、カスピ海北岸。スキティア人は、カスピ海東岸のトゥラン低地からカラクム砂漠(現トルクメニスタン)にかけて。そして、マッサゲティア(残留アーリア人)人は、アム河上流バクトリア。これらは印欧語族で、黒海北岸ヤムナヤ人が青銅器の原料、錫を求めて東に広がったものだろう。
歴史
2020.11.18
2021.01.12
2021.03.22
2021.05.25
2021.08.20
2021.08.20
2021.09.09
2021.09.09
2021.09.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。