/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/
いずれにせよ、ヨーロッパ世界とアジア世界を分けるユーラシアの壁を越えられるところは、「草原の道(ステップロード)」しかない。だが、それこそがアジアとヨーロッパを最短距離で結ぶユーラシアハイウェイだ。
自然地理学的な前提
地質学的にどうあれ、地理的には、このユーラシアの壁を挟んで、両側は、中央アジアと西域・モンゴルは、双子の乾燥地帯になっている。南に標高600メートルのイラン高原・ヒンデュークシュ高原やチベット高原を控えながら、カスピ海の標高はマイナス40メートル、タクラマカン砂漠に至ってはマイナス130メートル。とんでもない高低差がある。
おまけに地球の自転で赤道付近に東から西への貿易風が吹くせいで、この中緯度地域は偏西風が吹く。つまり、高原で雪や雨を搾り取られた風がフェーン現象の熱波となって、この低地に襲いかかる。それも、この偏西風は、太平洋の海流しだいで、しばしば大きく蛇行して、とんでもない熱波がこのあたりにずっと居すわることもある。かような事情で、この二つの地域、中央アジアと西域・モンゴルは、大半が砂漠。せいぜい草原(ステップ)。そのくせ、偏西風の蛇行によっては、激しい寒波に襲われ、マイナス20度以下になり、砂漠に雪が降ることも。
もうすこし細かく見ていこう。中央アジアは、東のパミール山地から巨大なカスピ海へ傾斜している。このために、山の麓には扇状地が広がり、砂漠の中にもアラル海などの塩水湖があって、東から西へ南のアム(オクソス)河と北のシル(ヤクサルテース)河が流れている。これらの河を挟んで、南から、カラクム(黒砂)砂漠、キジルクム(赤砂)砂漠、そして、広大なカザフステップがある。しかし、カスピ海東岸のトゥラン低地は地形的に不安定で、これらの湖や河はしばしば大きく移動してしまう。アム河も古代ではカスピ海に注いでおり、いまアム河が流れ込んでいるアラル海はもはや消えようとしている。
一方、西域・モンゴルは、西南から東北へ延び、その中ほどを西の天山山脈と東の陰山山脈で挟まれ、西南がタクラマカン砂漠、東北がゴビ砂漠。そして、北にモンゴル高原が控えている。また、天山山脈や陰山山脈の南側には、いくつもの小さな扇状地がある。また、黄河は、大きく陰山山脈まで北上し、崑崙山脈東端の河西走廊へ南下するので、このループの中は、オルドス草原になっている。
人文地理学的な理解
とにかく水が無い。だから、人が暮らせるのは、山際の扇状地か、さまよう湖や河のほとりだけ。しかし、石器時代、これらのオアシスに人が住み着いた。彼らは、当初は原始的な農業と牧畜を営んでいたが、やがて村の農地を拡大するために、牧畜はオアシス村の外の草原に頼るようになる。
歴史
2020.11.18
2021.01.12
2021.03.22
2021.05.25
2021.08.20
2021.08.20
2021.09.09
2021.09.09
2021.09.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。