/ヨーロッパ中世を終わらせたのは、1348年の黒死病(ペスト)の大流行だった。わずか三年で人口は半減し、その後、社会は元に戻ることなく、大きく転換していく。/
いずれにせよ、前年の47年末、すでに東ローマ(ビザンチン)帝国コンスタンチノープル市、ヴェネチア、マルセイユなどの港町で、奇妙な疫病が流行し始める。ただ、腿の内側や脇の下に腫瘍ができたり、高熱や嘔吐、咳が続いたり、手足に血黒いアザの斑点が出たり、病態があまりに多様で、一つの同じ疫病とは認識されなかった。しかし、死ぬ、ということは同じで、死体が血アザで黒いことから、やがて「黒死病」と呼ばれるようになった。
この黒死病は、48年1月には教皇の幽閉されているアヴィニョン市に入り、4月には繁栄するフィレンツェ市、そして秋にははやくも、百年戦争中のアキテーヌ=イングランドのロンドン市まで至る。ボッカチオの記すところによれば、人口三万人のフィレンツェでは中下層の人々、千人もが毎日、罹患していき、ついには死体がうち捨てられたままになった、そして、残る人々は死を待つ間とばかり、ただ消費に明け暮れ、死者は、周辺を含め、7月までに十万に達しただろう、という。この絶望的享楽を「死の舞踏」と言い、ヨーロッパ各地で歌や絵の題材として採り上げられることになる。
治療法はもちろん、原因さえもわからないまま、流行はロシアまで広がっていく。各地で迫害を受け、多様な疫病の淘汰に晒され、また、狭隘な特定地区に隔離されながらも、清潔衛生を徹底する宗教生活習慣を持つユダヤ人の中には感染を免れた人々もいたが、逆に、彼らが井戸に毒を入れた、とデマを流され、攻撃されることもあった。たとえば、ライン河の交易の要衝、マインツ市では、一万以上のユダヤ人が一般市民に焼き殺された。また、この黒死病の大流行は、モンゴル帝国を瓦解させ、かつて十字軍を撃退したイスラムのマムルーク朝(エジプト)にも拡がり、代ってオスマン朝が台頭する。
黒死病以後
三年の後、いったんは流行は収束した。もはや罹患する生きた人間が残っていなかったからだろうか。この災厄で、ヨーロッパの人口は半減した、とされる。しかし、その後も、散発的に各地で感染は続いた。このため、廃村だらけとなって、農奴を失った地方領主も没落。投げ売りされた農地や都市を生き残った農民や市民がカネで買い取り、新しい自営農民や自由都市が登場してくる。
疫病に無力だった教会は、いよいよ低迷し、アヴィニョンとローマに二人の教皇が出て、対立する事態に。とはいえ、大量の死者を前に人々の信仰心は深まり、教会とは独立に、鞭打ち行進などの熱狂的な宗教運動も盛んになる。また、イスラムの先進科学を採り入れたフィレンツェのメディチ家などが医薬販売で急成長し、魔女の薬草術のようなものも民間療法として人気を得る。これらに対し、離反を恐れる教会は、中世以上に、魔女狩りなどの威嚇で引き締めを図る。
歴史
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2020.09.30
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。