黒死病(ペスト)と時代の大転換

2020.02.29

ライフ・ソーシャル

黒死病(ペスト)と時代の大転換

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ヨーロッパ中世を終わらせたのは、1348年の黒死病(ペスト)の大流行だった。わずか三年で人口は半減し、その後、社会は元に戻ることなく、大きく転換していく。/


モンゴル帝国と黒死病大流行

中央アジアに突如として出現したモンゴル帝国が、1241年、ポーランドに侵攻。東方の十字軍を北上させ、これに向かわせざるをえず、東方では敗退が続く。勢力回復のために、教皇と仏王は、ヨーロッパ内の富裕なトウールーズ伯領を異端としてアルビジョワ十字軍で攻撃し、1271年、仏王領に併合。しかし、1291年、東方海岸の要塞アッコが陥落して十字軍の失敗が決定的になると、仏王は、もはや教皇の十字軍を見限り、東西隣地のフランドル・アキテーヌ奪還を図って、戦費調達のために教会に課税。これに抵抗する教皇を、1303年、仏王はローマ郊外のアナーニ村に追い詰めて憤死させ、07年、教皇十字軍の主力、聖堂騎士団も異端として壊滅、09年、旧トゥールーズ領南仏のアヴィニョンに傀儡教皇を幽閉。そして、39年、アキテーヌ=イングランドとの百年戦争を開始。

くわえて、ここに襲いかかったのが、疫病だった。共通言語と統一規則で、西端アフリカのモロッコから東南アジアのインドネシアまで、赤道半周の長大貿易圏を持つイスラムは、もとより大きな疫病の危険を抱えていた。これを、一日五回の礼拝前の徹底的な手洗い、顔洗い、足洗いという宗教習慣でかろうじて押さえ込んでいた。一方、ヨーロッパは、ゲルマン人も、ノルマン人も、もともと移動民族であったために、領主や教会の下に定住しても、入浴はおろか手洗いの習慣もなく、糞尿は窓から投げ捨て、死体も町の中心広場に土葬して、その上で食品市を開くような衛生観念しか持ち合わせていなかった。このために、汚染された東方の船舶、文物、そして帰還騎士たちや遊行者たちによって、さまざまな疫病が持ち込まれた。

だが、人々は、当初、これらを呪いや祟りとして捉えた。時代が時代で、全滅した街は記録も残らず、追放された人々は森や荒野で亡くなり、疫病の正体さえ、よくわからない。おそらくインフルエンザから、梅毒、ハンセン病、赤痢、チフス、コレラ、天然痘など、ありとあらゆる伝染病がさまざまに入り交じり、散発的に各地で小規模の流行を繰り返していただろう。

しかし、決定的となったのは、1348年から三年続いた黒死病(ペスト)だった。疫病は、死の淘汰の結果、耐性を持つ人々と共存し、見えない防衛網として、村を守り残すことがある。伝承によれば、中央アジア、キルギスのイシククル湖の近くに黒死病で守られた村があり、騎馬のモンゴル帝国は、その場で罹患死滅するより速く、ここを走り抜けてしまい、その版図拡大とともに病原菌を全世界に撒き散らしたのではないか、と疑われている。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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