/紀元前2世紀、秦の始皇帝の下、徐福という山師を中心に、三千人もの東方大探索集団が組まれた。その到来伝説が日本各地にある。しかし、この移民は、680年、外洋ダウ船によってこそ大規模に可能になった。その船に乗っていたのが、西王母信仰の巫女、カグヤ姫。そして、彼女は天武天皇との間に男の子を産んだ。しかし、その最期には悲しい悲劇が待っていた。/
一方、二千名の兵さえもなすすべもないまま、五尺の高さに浮く百人ばかりの「天人」と車に連れ去られたというカグヤ姫。それは、684年10月14日(旧暦)の白鳳大地震で伊勢湾を襲った大津波だったのかもしれない。8月と10月で月は違うものの、この災害があった14日は、月齢暦として、まさに満月なのだ。カグヤ姫を失った天武天皇は、浦島太郎のように、新城ないし信濃に行って、カグヤ姫に再会し、末永く共に暮らすことを願ったのだろうか。
いや、さらに大きな問題は、『古事記』の垂仁天皇の話だと、天皇とカグヤ姫との間に男子、オサベ王がいた、と書かれていること。これが、ほんとうは天武天皇のことだったとすると、大ごとだ。ただでさえ持統女天皇との息子、草壁皇子が689年、27歳で亡くなってしまって、697年、まだ14歳の孫を文武天皇としてむりに即位させたのに、ほかに、それも中国系移民とのハーフで、より正統な直近皇位継承権者がいる、ということになってしまう。持統女上皇が701年に三河から尾張、美濃へ旅しているのは、このカグヤ姫とオサベ王の噂を確かめるためか。
結局、津波に掠われたカグヤ姫やオサベ王の行方はわからなかったのだろう。まして、文武天皇、その子の聖武天皇がいるのに、そのことを公式の史書に書くわけにもいくまい。だから、こうして、現実と虚構をないまぜにして、日本最古の物語『竹取物語』が実名入りで作られた。
ついでながら、カグヤ姫が形見として天武天皇に残した不老不死の霊薬というのは、680年に八代にやってきた中国の「橘」、マンダリンオレンジ。移民団は、蚕とともに日本に持ってきて、温暖な日本太平洋岸で規模プランテーションを考えていた。それは、日本の「橘」とはまったく違って、大きく、甘く、ビタミンなど、とても滋養に富んだ薬果。だが、それはもともとインド・アッサム地方のトロピカルフルーツで、気候的に中国本土での栽培には適さなかったのだ。中国で西王母神と言えば桃だが、日本の太平洋岸では、これが同じく満月のように丸い中国橘、マンダリンオレンジに代えられた。
津波の後、カグヤ姫の橘畑だけが山に残った。天武は、その実を富士山頂で焼き捨てさせた、と言うが、当時、富士山は白鳳大地震に連動して大噴火し、人が寄れるはずもない。だから、天武天皇は、これをカグヤ姫との仲介役の中臣房子こと犬飼三千代にやってしまったらしい。そして、彼女は後に「橘」姓を賜り、これを京都南部の山崎で栽培。万葉集七十余首に歌われるほどの大人気の果物となる。だが、その後、九州八代でも、東海地方でも、京都山崎でも、この中国橘は、日本固有の神樹蚕(シンジュサン)という蛾に葉を喰い荒らされて全滅。かろうじて別種の小みかんだけが残った。この苗が戦国時代に九州八代から紀州有田に植えられ、江戸時代に爆発的に人気を得るようになる。
歴史
2013.05.07
2017.07.15
2017.08.07
2017.08.12
2017.10.04
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。