/紀元前2世紀、秦の始皇帝の下、徐福という山師を中心に、三千人もの東方大探索集団が組まれた。その到来伝説が日本各地にある。しかし、この移民は、680年、外洋ダウ船によってこそ大規模に可能になった。その船に乗っていたのが、西王母信仰の巫女、カグヤ姫。そして、彼女は天武天皇との間に男の子を産んだ。しかし、その最期には悲しい悲劇が待っていた。/
日本史も世界史から見ないとわからない。7世紀初め、アラビア半島でイスラム教が創始され、瞬く間にアフリカ西岸からアジア沿岸にまで普及。この統一言語、統一商法の下で、長大な貿易圏「海のシルクロード」ができた。それを支えたのが、外洋船ダウだったのだ。そして、それが7世紀後半には中国に至り、半島を経ずに、中国から日本への直行を可能にした。
それまで、中国系移民の秦氏諸族は、日本の海部(あま)氏、安曇(あずみ)氏などを巻き込みながら、九州の「豊」国、いまの大分あたりから、瀬戸内海を経て、御坊や熊野と紀伊半島沿いに伊勢湾岸、熱田神宮あたりにまで、ゆっくりと勢力を拡大していた。それが、八代に発着するダウ船との連携すれば、揉めてばかりの面倒な半島など通さず、直接に中国と日本の貿易が可能になる。その日本側の窓口として、かれらは、松橋(まつばせ、熊本と八代の間、高千穂経由で延岡と繋がる交通の要衝)に拠点となる屋敷を構えた。
だが、その後も筑紫大地震の余震はひどく、その阿蘇山麓から水俣にまで至る巨大な日奈久断層も動き、きわめて不安定な状況が続いた。くわえて、南海トラフを震源として684年に起きた南海・東南海・東海三連動の白鳳巨大地震で、鹿児島の串木野・宮崎の青島・高知の佐川・和歌山の御坊や熊野などの植民港が、のきなみ壊滅的な被害をこうむってしまった。
しかし、ダウ船は、もとより外洋用であり、波が荒く風も強い太平洋をに沿って伊勢湾まで直行が可能。かれらは、伊勢と渥美半島の間の神島に八代神社を築き、690年に日本側に伊勢神宮を作らせ、さらに、対岸の三河の「豊川」周辺に到達、698年に豊橋(豊秦)に羽田(秦)八幡宮、702年には奥三河の鳳来寺(蓬莱)山に鳳来寺を開く。
カグヤ姫と垂仁・天武
日本最古の物語文学『竹取物語』は奈良時代に書かれたものだが、カグヤ姫に言い寄る貴族たちのうちの何人かは、なんと、実名なのだ。三人目が右大臣の阿倍御主人(みむらじ、635~703)、四人目が大納言の大伴御行(みゆき、646~701)、五人目が中納言の石上(物部)麻呂(640~717)。
この同時代となると、一人目の石作皇子は不明だが、二人目の車持皇子は、藤原不比等(ふひと、659~720、中臣鎌足の子、一説には天智の隠し子、母が車持氏の出)にまちがいない。また、かぐや姫に言い寄る六人目の貴族、帝。また、701年に大伴御行が死んで、石上麻呂が大納言になっているので、話は701年より前。持統女天皇(645~703)が685年から697年までいたので、男は、その前の天武天皇(?~686)か、その後の文武天皇(683~即位697年(14歳)~707)のどちらか。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。