「や、きみ、もしかして、わたしがほんとにいるとでも思っているのかい?」 「え、だって、いま目の前に……」 「いいかい、いま、きみは夢を見てるんだよ。わたしなんか、いないさ」
ニワトリが鳴いた。狭い境内で放し飼いにしている連中だ。さあ、お勤めだ。庫裏の薄い布団をたたんで、隣の小さな本堂の灯明をともし、火鉢にヤカンをかける。
なんの意味があるのだろう、そう思わないこともない。とはいえ、先人たちが数千年もやってきたこと。小さな御本尊の前に座って読経を始める。
仕事が見つからず、やけになって、大きな寺に入門してみた。勉強はしたが、世襲できる実家があるわけでもなく、それなら、ということで、ここをあてがわれた。山の中とはいえ、来たころは、まだ人もいた。しかし、しだいにみな村を離れ、春秋の彼岸に墓参りで顔を出せばいいほう。村の年寄りは、孫たちにも顔も忘れられた、と嘆く。そして、その祖父母たちも亡くなると、めっきりだれも村に寄りつかなくなった。
なにか特別な由緒か観光の目玉でもあればと、いろいろ聞いてはみたものの、めぼしい話は、なにもなかった。もうすぐ年末年始。有名どころは、初詣の準備で忙しいらしいが、ここはなんの変わり映えもしない。
もうこの寺の、おとむらいかな。目をつむり、そらんじた経を唱えながら、ちょっと自分で笑った。掃除はしているが、修善が追いつかない。隙間風だらけで、根太から傷んでいる。台風や地震でもあれば、潰れるかも。そうでなくても、昨今は熊騒動だ。いや、おしゃかさまも前世で飢えた虎に身を捧げたというから、それもこの職の本望か。
「お、ごめんよ」
振り返ると、あの人だ。
「え? うちにこどももいませんが」
「いや、ちょっと温まらしてくれ」
「え、ええ、もちろんどうぞ。いますぐお茶を」
「すまんね」
「しかし、なんでまた……」
「ニワトリが鳴いたら、このへんは終わりさ。もっとも、これからまた北極へ戻って、いろいろ補充して、次の経線を南極まで走り抜けないといけないんだがね」
「ああ、今夜はお忙しいですね。さ、どうぞ。熱いですから気をつけて」
「あ、ありがと。ミルクばかりで、口がくわくわしていたところだ」
「えーと、カキでも剥きましょうか」
「いやいや、茶菓子なら、この袋にたんまりあるぞ。いただきもののお流れだが」
「はあ、ありがとうございます」
「あんたは、ひとりでここをやっているのかね?」
「ええ、まあ」
「なかなか、たいへんだろうな」
「さすがにそろそろ潮時ですよ」
「そりゃ、おたがいさまだよ。昔と比べれば、わたしのことを待っているこどもなんか、すっかり減った。いや、こどもからして減ったからね」
「そうでしょうね。このあたりには、もうこどもはだれもいませんし」
「こんな暗い時分から明かりがあったのは、ここだけだったよ」
「そうですか。明かりを灯していた甲斐がありました」
「おや、きみ、おぼえているよ!」
「え?」
「ほら、街中のマンションの三階の東の角の部屋だ」
「ええ、まあそうでしたけど」
「いつか会いたい、って、毎年、わたしあての手紙を残してくれてたじゃないか」
「ああ、そうだったかも。いらっしゃるまで、いつも起きてられなかったから」
「わたしもね、いつかとは思いながら、なかなかね。ほんとにすまなかった」
「いや、あやまっていただくようなことでは…… かってなお願いでしたから」
「そういうのが、いかんかったのかもなぁ。いまじゃもう、わたしを待っているこどもなんか、ほんとに減った……」
「……時代ですよ。みんな忙しいから」
「ん、どうした? 笑ってるのか?」
「えっ? ええ、わたしはひまですからね」
「だけど、こんな朝早くから、忙しそうじゃないか?」
「掃除でもなんでも、まあ、できることはなんでもやりますけどね、でも、どうせだれも来ないんですよ」
「…… そうか……」
「それに、あなたに会えたなんて、ほんとに夢みたいだ。あのころは、もっといろんな夢もあったのに…… ほかはなにもかなわなかった」
「……」
「ほら、大きくなったら、彼女ができて、就職して、結婚して、小さくな家を建てて、家族みんなでしあわせに暮らせると思ってた。だけど、いまはこのとおり。こんな山の中で、たったひとり……」
「…… 夢なんて、そんなもんだよ」
「……こんな毎日のほうが夢みたいだ。自分がこんなふうになるなんて、思ってみたこともなかったから」
「まあ、だれでもそうさ」
「いや、でもあなたは」
「や、きみ、もしかして、わたしがほんとにいるとでも思っているのかい?」
「え、だって、いま目の前に……」
「いいかい、いま、きみは夢を見てるんだよ。わたしなんか、いないさ」
「?」
「さ、二番鶏が鳴く前に、いったん北極に帰らないと。じゃましたね」
さっと、外の冷たい風が吹き抜けた気がした。もうひとつ、空の茶碗とクッキーの粉がすこし。自分の茶を飲みきって、ちょっと溜息をつく。
「まあ、夢でもいいさ」
雑巾で床の粉を拭う。
「さあ、掃除、掃除」
バケツにヤカンの湯を注ぎ、雑巾をしぼる。外が白んできた。
「ああ、きょうも忙しいな」
すす払いに、落ち葉掃き。陽が出たら、ふとんも干したい。洗濯物もたまっている。ニワトリたちのエサも買いにいかないと。
「来年もまた寄ってくれるかなぁ……」
そんなことをぼんやり考えながら、あとで村に降りたときに、さっきのことをお年寄りたちに話してみようと思った。
物語
2020.12.23
2021.04.17
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2025.12.15
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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