/歴史的な差別を近代が解放した、というのは、捏造された近代の神話だ。むしろ近代化こそが、人間の標準理想像をあまりに狭く画一的に定義したために、同調圧力によって、そのミドルクラスモラリティから漏れる人々を社会から排除し、かえって人権抑圧を引き起こした。この独裁者無き全体主義と戦うために、多くの人道思想家たちが自分自身の人生を賭けて奔走した。/
26.09. アメリカ南北戦争:1860年代
上院は各州から二名ずつ選出された上院議員で構成されていました。イリノイ州では、ダグラス上院議員が圧倒的な勢力を誇っていました。リンカーンは、奴隷廃止で国民を統一すべく新共和党を結成しても、1854年には二番手にすらなれなかったにもかかわらず、1858年の上院議員選挙でダグラスに挑み、予想どおり敗北しました。それでも、リンカーンは1860年の大統領選挙に出馬しました。対立候補は三人おり、そのうちの一人は他ならぬダグラス上院議員でした。ところが、驚くべきことに、対立候補たちの票が割れ、米国の複雑な選挙人制度のおかげで、リンカーンは大統領に当選しました。
「彼は不屈の男だった。しかし、彼の勝利はほとんど偶然の産物だった」
当然ながら、彼に反対する人々は選挙結果に異議を唱えました。1861年にリンカーンが大統領に就任すると、南部諸州は米国から分離し、アメリカ連合国を樹立しました。彼らが分離した理由は、奴隷廃止で彼らの経済活動が停止するのを恐れただけでなく、国民を統一しようとする共和党のリンカーンが、新大陸の根本原理、独立、自衛、そして地方自治、つまり、ヨーロッパから追放された多様な少数派が共存できる基盤を否定する独裁者だ、と考えたからでもありました。そのため、彼らはむしろ解放戦争として米国への攻撃を開始しました。
「戦争においては、双方に戦う理由がある」
しかし、北部には戦う理由がほとんどありませんでした。西部の人々にとっては奴隷制度は身近な問題だったかもしれませんが、東部の人々にとっては遠い州の問題でした。リンカーン大統領は、1863年の奴隷解放宣言で南部の奴隷反乱を促そうとしましたが、同時に志願兵不足のため北部に徴兵制を敷かざるをえなくなり、それがかえって米国軍に対する暴動を引き起こしました。一方、メアリー・ウォーカー医師(1832-1919)は、北軍に志願し、男性の軍服を着てオハイオ州で女性外科医として活躍しました。他にも多くの女性が男性の服装をして北軍に従軍しました。ドロシア・ディックスも、3000人の北軍看護師の監督官を務めました。クララ・バートン(1821-1912)は事務員でしたが、看護師として志願し、自ら戦場に赴いて負傷者の手当てをしました。
「奴隷を解放するために、リンカーンは新たな奴隷制度、徴兵制を導入した。一方、一部の女性たちは、この戦争を自分たちを解放する機会と捉えた」
しかし、ドロシア・ディックスは、北軍であろうと南軍であろうと、負傷兵は平等に治療されるべきだ、と主張したため、周囲と衝突し、北軍を離れて女性中央救援協会を設立しました。戦後、彼女はむしろ南部の精神病院の改善に尽力しました。ジュネーブの銀行家、アンリ・デュナン(1828-1910)は、YMCAの国際的な活動家でした。ナイチンゲールを尊敬していた彼は、1859年の第二次イタリア独立戦争で負傷者の救援活動を行い、1863年に国際赤十字を創設しました。しかし、彼の銀行は1865年に破産し、その後、彼は貧困に苦しみました。
「彼らこそが、リンカーンの人道的な理想を理解していた人々だった」
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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