/ショーペンハウアーが25歳で若書きした『意志と表象としての世界』は、老練なカントやヘーゲルの本より、はるかに厄介で難解だ。それで、訳知り顔の連中の雑駁な抜書きだの孫引きだのが横行して、よけいわけがわからなくなる。だが、それこそ、彼がもっとも侮蔑した根拠原理の恣意的濫用だ。個々の言葉尻を追うのではなく、きちんと背景と文脈に即して、全体を一つの意志の流れとして掴むのでないと、彼の哲学は砂のように指の隙間から流れ落ちてしまう。/
「彼はベートーベンやフォイエルバッハの先駆者だった」
しかし、ウパニシャッド哲学、とくに仏教の影響を受けた8世紀以降のその一元論によれば、偽りのマーヤは、自分がなにかを知らないのに、自分として生きようとするアイデンティティ、つまり、たんなる自分としての生への意志で作られます。それは、故ライプニッツだけでなく、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルという同時代の諸先生たちの自己同一性に基づく充分根拠という基礎訴原理を全面的に否定することを意味しました。にもかかわらず、ショーペンハウアー(30)は1818年に『意志としての世界と表象』を出版しました。
「それは、ヘーゲルがベルリン大学の教授となって、学生に人気になる直前のことだった。彼の本は彼をトラブルに巻き込まないだろうか?」
24.2. 根拠と意志
この本で、彼は、整合合理性、つまり根拠原理への私たちの依存が諸悪の根源だ、と論じました。第一巻で、彼は、先の四根拠原理を再考し、世界観の主観性を説明しました。第二巻では、世界観が諸意志でできていることを示しました。第三巻では、芸術が我々にかいま見せる世界の実相、世界意志を採り上げました。そして、第四巻では、最終的に私的意志の否定を求めました。しかし、彼の議論はかなり迂遠でした。
「彼は自分の思索経緯をすべて書き留めようとしたのだろう」
第一巻では、彼はまず、空間的にせよ、時間的にせよ、部分による存在根拠は、世界の整合性を意味するにすぎず、なにかの実在はもちろん、世界全体の現実性さえ保証しない、と判じました。第二に、生成根拠の因果は、世界ではなく、認識主観の抽象形式に属しています。したがって、第三に、認識根拠は、証拠と主観の間に因果を適用する範疇違いです。したがって、四番目の根拠原理である行動目的のみが残ります。
「これはまだ第一巻の道半ばですね」
推理能(Vernunft、理性)を持つ人間だけが、目的を得ます。ただし、目的は現実に先行します。抽象概念は対象的な直観ではなく、主観的な意志(感情)によって現れ、期待と結果のギャップは笑いを誘うかもしれません。それで、推理能は、はなから整合に基づく人為的な科学を好みます。けれども、一般的な実践では、現実の結果がわからないまま、私たちはつねに飛躍として行動しなければなりません。
「それは、カントが理性の限界を超える自由と言ったことですね」
ええ、第二巻では、カントと同様に、ショーペンハウアーも身体の存在を、限界を克服するための道として利用しました。しかし、それをもってカントは自然の外界に出ていきましたが、ショーペンハウアーは逆に主体が投影する自身の幻覚世界に入っていきました。そこでは、自分の意志を自分の身体として対象的に認識します。つまり、身体は幻覚世界での意志のアバターであり、個別状況での具体目的を特定します。しかし、それでも、なぜその目的を望むのか、つまり自分自身の意志そのものは、あいかわらず見えません。
哲学
2024.09.14
2024.09.19
2024.09.22
2024.11.24
2024.12.02
2024.12.09
2025.02.01
2025.02.17
2025.03.31
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
