水と文明と災害

画像: 玉川上水

2024.01.07

ライフ・ソーシャル

水と文明と災害

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/日本の国力には限界がある。災害が起こる前に、井戸や溜め池、汚水の分散処理など、厳しい現実を直視して、住民たちとともに考え、行動し、災害に備えておく実務作業が必要なのではないか。/

しょせんはどこか遠くの出来事。そんな風に思っていないか。だが、明日は我が身だ。たしかに、新陳代謝の早い東京は、あんなふうに壊れる古い家々が残る地域は、もはや多くはないかもしれない。とはいえ、問題は同じだ。まず水。地震では、上水、そして下水が破綻する。

本来、人は、真水の無いところでは生きられない。だが、人間は、水路水道を拓くことによって、その供給量を飛躍的に増大させ、川や池、井戸も無いところに町を築いてきた。関西ではよく「琵琶湖の水を止めたろか」という滋賀県民の冗談を聞くが、実際、それが京都や大阪の生命線だ。巨大都市ローマが滅びたのも、蛮族に周囲を抑えられて、市内への水の供給が途絶えたからにほかならない。

江戸は、もともと沼地のようなところで、井戸を掘ればどこでも水が出た。しかし、幕府ができ、参勤交代もあって、人口が爆発的に増大した江戸時代、まず問題になったのが、水だ。それも、関東平野はほとんど高低差が無く、くわえて、その全域を覆っている火山性の赤土、関東ローム層は、ほとんど保水力が無い。

当初は日野の渡し(現日野橋)からの取水を試み、ここから東へ水路を開削したが、現東京競馬場北を経て、瀧神社を過ぎたものの、現東郷寺のあたりで、水はすべて地中に吸い込まれてしまった。それで、もっと北を通そうと、福生からの取水を行ったが、これも拝島駅北の現・水喰らい土公園で消失。やむなくはるか上流、羽村から水を引いて、水喰らい土を北に避け、現在の玉川上水となる。ときに1654年。これによって江戸城はもちろん、その南側の赤坂の屋敷町、また、海沿いの築地まで、人の居住が可能になった。

現在の東京は、多摩川からの取水は17%に過ぎず、八割を利根川・荒川水系に依存しており、東部が金町・三郷、北部が三園、中部や南部は朝霞・東村山・小作から給水している。しかし、この構図は、防災対策としては、かなり危うい。もとより海抜の低い荒川周辺が津波を喰らった場合、いくら他の浄水場から融通しようとしても、そこら中で水道管から漏水していれば、23区は、ほぼ確実に全域で水道供給ができなくなる。

このことは、下水問題に直結する。水は人を集めるが、排泄物は町を滅ぼす。人が分散している村では自然分解できても、大都市では、その悪臭が問題であるだけでなく、疫病蔓延の元凶だ。ところが、江戸時代、周辺各藩は、江戸の糞尿が痩せた関東ローム層を改良し、新田開発の要となることに目を付け、その運び出しの専門業者を生み出す。郊外に延びる多くの私鉄も、当初、じつはこの利得のために建設されたもので、「黄金列車」と呼ばれた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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