/ベルヌ条約は、形態を越えた創造性こそを「著作物」と見なしている。にもかかわらず、マンガ家第一世代は、脚本も映像も現場に丸投げしてその版権利益を享受。その一方、他人の作品を貪り喰って、なんでも自分の顔にすげ替える化け物たちも出てきた。/
前々世紀後半の1886年、スイス・ベルン市で「ベルヌ条約」ができた。1971年にパリ改正され、今日、著作権に関する国際的共通了解として、世界のほとんどのまっとうな国が加盟している。が、日本では、あいかわらず版権海賊たちが跋扈し、その精神が守られているとは言いがたい。
著作権は、フランス革命の結果、できた。それまで、世間への一般公開(パブリッシング、出版や上演)には、個別に国王の「特許」が必要だった。そして、この特許によって、独占性も保たれていた。ところが、1789年の革命はこの国王の「特許」も否定してしまい、複製、偽造、なんでもありの「自由」にしてしまった。このため、創作の現場は、むしろ大混乱。それゆえ、国王と王妃の首を落とした強権政治のロベスピエールが、その『1793年憲法』において、世界で初めて「著作者の著作物所有権」を制定した。
重要なのは、これが「著作者権 droit d’auteur」の人権であるということ。とはいえ、その後、皇帝ナポレオン、王政復古のルイ18世、株屋の王ルイフィリップ、そして、うさんくさいナポレオン三世、と実質的な独裁者が政権を担い、国王時代の「特許」と同様の独善的な検閲許認可でパブリッシングがコントロールしたので、この新たな著作者権が実効力を持たないままだった。
しかし、復古的な独仏ウィーン体制の中、英国に近いベルギーは、いち早く産業革命を成し遂げ、1830年にはオランダからも独立。フランス語圏でもあったので、フランスの著作者や許認可を無視した海賊版を大量作成し、フランスに安値で逆輸出。作家や画家、学者たちは自主的に検討会議を何度も開いたが、各国政府は傍観。それが1870年の普仏戦争に破れ、第三共和政となり、78年、パリ万博が開かれたの機に、ヴィクトル・ユーゴが中心となって「国際文芸協会」を創設し、各国政府に対して国際条約締結を要求。こうして、ようやく1886年の「ベルヌ条約」21ヶ条に漕ぎ付ける。
「原ベルヌ条約」(1886版)は、その第四条において保護対象となる「作品」を定義しており、「言葉の有無にかかわらず avec ou sans paroles」「印刷や複製のなんらかの方法で公表されうるもの qui pourrait être publiée par n'importe quel mode d'impression ou de reproduction.」とされている。これによって、たしかに同じフランス語圏のベルギーの版権海賊たちは抑え込める。ところが、昔からフランスとロシアは文化交流が盛んなのだが、フランス文学をロシア語に翻訳すると、見た目もまったく似ていないキリル文字の羅列となる。これは、たしかに原著作物の機械的な印刷複製ではない。同様に、同じフランス語でも、小説の舞台化なども、印刷複製ではない。
解説
2023.12.01
2024.01.07
2024.01.11
2024.01.19
2024.02.03
2024.03.12
2024.03.29
2024.05.01
2024.06.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。