/ベルヌ条約は、形態を越えた創造性こそを「著作物」と見なしている。にもかかわらず、マンガ家第一世代は、脚本も映像も現場に丸投げしてその版権利益を享受。その一方、他人の作品を貪り喰って、なんでも自分の顔にすげ替える化け物たちも出てきた。/
状況が変わってきたのは、そんな第一世代の大御所マンガ家たちが現場を去って、出版社主導になってから。かつて数が限られていたマンガ家たちは、雑誌に玉稿を出してくださる「先生」だったが、やがて担当編集者が一身同体二人三脚の「伴走者」となり、それがさらに、マンガ家ワナビーが世に溢れかえる昨今、出版社側がその「生殺与奪権」を握って、作品の中にまで手を突っ込んで強制的な「アドバイス」をするようになる。それどころか、いまや、作品の著作権クレジットにまで出版社名を書き入れている。
このために、マンガ家がいちおうは著作権を保持しているにしても、事実上も、権利上も、出版社との「共作」となり、連載時に、自分のところの雑誌で売り出してやるのだから、著作財産権の独占出版権をよこせ、というような契約を結ばされることが多い。これによって、著作者であっても、外部との交渉能力を失う。一方、出版社は、テレビや映画とつるんで、その宣伝効果をテコに、雑誌や単行本のさらなる売上増を図る。
マンガ家とWin-Win、のように見えるかもしれないが、騙されてはいけない。作品の完結なんか待っていたら売り時を逃す。マンガ家本人がどう思おうと、売れるうちに売ったもん勝ち。代わりはいくらでもいる。文句を言うなら、使い捨てにして、次のやつに入れ換えればいい。そこにMHのできそこないのような素性出自も怪しい「顔ダシ」の自称「脚本家」たちがウジのように沸いて取り憑き、イッチョカミして作品をギタギタにする。本来ならマンガ家を守るべき団体も、丸投げの版権ビジネスで甘い汁を吸ってきた第一世代の残党に支配されており、むしろ出版社やテレビ、映画の側について、これを黙認。
もとよりマンガは、手塚治虫の当初から映画の手法を取り込んでおり、その制作も、ネームという脚本を立て、そこから絵コンテというコマを起こす手順で作られている。歌舞伎でも、洋芝居でも、決め台詞と見え切りの止め絵が、いちばん受ける。CMまたぎだの、毎回の山場とオチ、次回へのティザーだののフォーマットの問題も、ページめくりと各週完結、連載確保を数百回もやりとげてきたマンガ家の方が、はるかにうまく処理できるだろう。だから、時間さえあれば、十回分の脚本くらい、みな自分でかなりのものを作れるはず。
ただし、一人で調和した世界全体を創造するマンガ家は、個々のタレントたちの御機嫌取りの太鼓持ちとして、作品の質を犠牲にしてまで、台詞や出番をねじ曲げることだけはできない。そのせいで、マンガ家は、作品を略奪され、人権を蹂躙され、版権海賊たちの集団リンチで殺されたも同然。出版社はもちろん、テレビや映画、そしてマンガ家の団体も、版権海賊世代とその悪習を一掃し、アイディアの創造性を重んじる本来のベルヌ条約の精神を取り戻さないと、国際的な知的財産尊重の潮流から脱落し、いつまでも同じ悲劇が繰り返されてしまう。
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元テレビ朝日報道局ブレーン
解説
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2024.06.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。