「世界で最もコミュニティ・フォーカスな都市」「スタートアップとしての街づくり」などをキャッチフレーズに壮大なビジョンを掲げたトニー・シェイの「ダウンタウン・プロジェクト」。ローンチ後間もない2012年9月のトニーは最高に幸せに見えた・・・。元ザッポス社CEOトニー・シェイ追悼ブログの第七回。
次に連れていかれたのは『小切手換金所(Checks Cashed)』の看板のあるこじゃれたブティックだった。かつてロサンゼルスのエンターテイメント業界でスタイリストとして活躍したというオーナーのサラさんは、ダウンタウン・プロジェクトのスモール・ビジネス助成金でオープンしたブティックを切り盛りする傍ら、同じくダウンタウン・プロジェクトの資金援助を受けている起業家の相談役も務めていた。彼女もまた、トニーのビジョンに魅せられたひとりだった。サラさんのブティックの最も奥まで入り込んだところにレジがあり、レジの後ろのドアを開けると、その向こうにはまるで隠れ家のようなダウンタウン・プロジェクトの作戦本部があった。トニーはそこにも私を招待してくれた。
ラスベガスのダウンタウンはトニーの手中にあり、世界がトニーを中心に回っているかのようだった。しかしそんなトニーにも心配事がないわけではなかった。冒頭の写真はその日の終わりに、『ザ・ビート・コーヒーハウス』に戻り、ザッポスの近況についてトニーとクリスタをインタビューした最中に撮ったものだが、その時、トニーは「企業文化の希薄化」の懸念について話してくれた。創業から13年、アマゾンの傘下に入り安定したザッポスは過渡期を迎えていた。勤続年数が二年未満の人が社員の約半数を占めていた。彼らにとっては、入社一日目からザッポスは既に「有名企業」であり、コア・バリューを守り立ててきた古株社員と彼らとの間には、企業文化に対する思い入れにも温度差があった。
そんな懸念にも関わらずトニーはアップビートだった。厄介な困りごとというよりは、解決すべき課題として捉えていた。トニーは2004年にザッポスがサンフランシスコからラスベガスに移転した時のことを話してくれた。ラスベガスという新しい土地に縁(ゆかり)のなかった社員たちが、共に暮らし、飲み食いし、遊ぶことによってどんなに絆を深めたか。ある意味、ダウンタウンへの移転はその歴史を再現しようという試みだった。社員が共に働き、暮らし、遊ぶ場所を創ることにより、トニーはザッポスの結束を新たに強固なものにしようとしたのだ。
そればかりではなく、起業家、テクノロジー、アート、ミュージック、ファッション・・・、そういった諸々のクリエイティビティが衝突し、融合し、新しい何かを産み出す起爆剤となる「新天地」をトニーは創ろうとしていた。2012年9月のラスベガスのダウンタウンは、トニーだけではない、たくさんの人たちの夢がひしめき合い、ざわめいていた。
数多くの出会いやインタビューの舞台となったあの懐かしい『ザ・ビート・コーヒハウス』はもう存在しない。ただ、トニーが種を撒いたダウンタウン復興の夢はまだ続いている。さびれていた街並みに希望の灯をともしたトニーのビジョンに改めて敬意を表したい。
企業文化
2020.12.24
2020.12.25
2020.12.29
2020.12.30
2020.12.31
2021.01.01
2021.01.03
ダイナ・サーチ、インク 代表
ダイナ・サーチ、インク代表 https://www.dyna-search.com/jp/ 一般社団法人コア・バリュー経営協会理事 https://www.corevalue.or.jp/ 南カリフォルニア大学オペレーション・リサーチ学科修士課程修了。米国企業で経験を積んだのち、1982年に日米間のビジネス・コンサルティング会社、ダイナ・サーチ(Dyna-Search, Inc.)をカリフォルニア州ロサンゼルスに設立。米優良企業の研究を通し、日本企業の革新を支援してきた。アメリカのネット通販会社ザッポスや、規模ではなく偉大さを追求する中小企業群スモール・ジャイアンツなどの研究を踏まえ、生活者主体の時代に対応する経営革新手法として「コア・バリュー経営」を提唱。2009年以来、社員も顧客もハッピーで、生産性の高い会社を目指す志の高い経営者を対象に、コンサルティング・執筆・講演・リーダーシップ教育活動を精力的に行っている。主な著書に、『コア・バリュー・リーダーシップ』(PHPエディターズ・グループ)、『アメリカで「小さいのに偉大だ!」といわれる企業のシンプルで強い戦略』(PHP研究所)、『ザッポスの奇跡 改訂版 ~アマゾンが屈した史上最強の新経営戦略~』(廣済堂出版)、『未来企業は共に夢を見る ―コア・バリュー経営―』(東京図書出版)などがある。