/カントは、理性の限界とともに実践の領域を発見した。しかし、そこでは、現実との対決が待ち受けており、ばらばらの自己定立が人々の同一性を打ち壊す。ヘーゲルは、ここに、学習し発展していく世界理性という新たな神を見たが、フォイアーバッハやマルクスは、唯物論としてモノの支配と人間性の疎外を疑い、共同体による革命の必要性を説いた。だが、キルケゴールは、カントに戻って、神は理性の限界の向こうに置き直し、それを支点として、他人とは異なる生き方、単独者としての実存を問うた。/
キルケゴールからすれば、この自分からして分裂の危機にある。世界はばらばらで、ああすべきだ、いや、こうしたほうがいい、と、大量の情報と誘惑が溢れている。我々は、毎日あれこれ忙しくやっているが、じつは自分の外の他人の話、世間のモノに引っ張られ、自分の現実と希望とが分断されてしまっている。それで、我々はいつまでも自分自身の希望にはたどりつかない。それを彼は「絶望」と呼んだ。
勉強しよう、就職しよう、結婚したい、子どもを持ちたい。幸せな人生を希望していながら、とりあえず今日の仕事。帰ってくれば、疲れ果てて、やけ食い、やけ飲み。休日もあちこち出歩き、世の中の話題を追って、気がつけば思わぬ散財。貯金もできないし、時間も取れない。そうやって、気づけばもう三十、四十、そして、あとはもう悲惨で孤独な老後が目前。なのに、この「絶望」から目を背けて、明日もまた仕事。
キルケゴールは、この「絶望」から逃れるには、まず、「単独者」としての自覚が必要だ、と言う。人は人、自分は自分。人間は、すべて一人一人、生まれも、育ちも、現実も、希望も違う。そんな違うものに、万能の普遍的な処方箋などあるわけがない。そして、自分で解決しないやつが、自分になれるわけがない。
だが、主観的に、あれがかっこいい、これがすてきだ、などという「耽美的実存(生き方)」では、いよいよ迷う。かといって、客観的に、あれが正しい、これがまっとうだ、などという「倫理的実存」は、いよいよ自分を失っている。そうではなく、神という不変不動の基準に照らしてみて、こんな過去を生きてきた、こんな現実の自分に課せられた天命は何か、自問し自覚することが大切。これが「宗教的実存」。
しかし、限られた時間、限られた条件で、あれもこれも、などということはできない。それうえ、我々は、神と違って、全知全能ではなく、正解などわからない。能力的に限りある実践理性を駆使して、与えられているものを組み上げ、あれかこれか、そのつど選び取らなければならない。それがほんとうに希望につながるかどうかは、神を信じて飛び込むしかない。
考えてみれば、そもそも希望というのは、じつは一瞬の状態ではなく、一生の幸せだ。もとより、一生という量は限られている。だから、我々にできるのは、それをいかに質として充実させるかでしかない。あれかこれかの個々の断片的な決断を積み上げ、最終的に幸せな一生にする。これが「質的弁証法」。
哲学
2020.06.27
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2021.07.29
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。