/カントは、理性の限界とともに実践の領域を発見した。しかし、そこでは、現実との対決が待ち受けており、ばらばらの自己定立が人々の同一性を打ち壊す。ヘーゲルは、ここに、学習し発展していく世界理性という新たな神を見たが、フォイアーバッハやマルクスは、唯物論としてモノの支配と人間性の疎外を疑い、共同体による革命の必要性を説いた。だが、キルケゴールは、カントに戻って、神は理性の限界の向こうに置き直し、それを支点として、他人とは異なる生き方、単独者としての実存を問うた。/
革命に限らない。世界は、民主主義、資本主義、帝国主義、鉄道や自動車、ラジオやテレビ、インターネットや仮想通貨、と、次々、なにか魅力的なものを思いつく。そして、それを実際にやってみるが、現実は甘くはない。でも、こうして世界は、現実的に学習して、すこしづつ賢くなっていくとされる。
ただ、ヘーゲルによれば、世界理性が人々を使って実験しているのであって、その観念を主導する人間は、自分でやっているつもりでも、じつは世界理性に踊らされているだけ。その人でなくても、別のだれかでもよかった。時代の舞台に登って英雄になる人がいないではないが、ほとんどすべての人は、ムダな流行に酔わされ、大切な本来の自分の人生を失うことになる。
5.フォイアーバッハ(1804~72)
フォイアーバッハは、ヘーゲルの観念論を学んだが、「世界理性」などという、精神的に成長する正体不明の神のような怪しげな存在に頼った体系には納得がいかなかった。
彼に言わせれば、そもそも神などというものからして、人々が信仰によって存在させしめているだけのもの。神学では、神が人を創ったことになっているが、ほんとうはその逆で、人間が神を創った。シェリンクは最初に均質の同一者があったとしたが、フォイアーバッハからすれば、むしろ、本来、人間はばらばら。しかし、文明とともに人々を統一する必要から宗教ができ、人間の善良なる理想をかきあつめて、世界の外側に絶対の同一者、つまり神の虚像が投影された、と言う。
ところが、これまたシェリンクの逆に、もともと人間に根拠を持つにすぎなかった神の方が、いつの間にか自立して存在するかのようになり、人間を支配するようになって、個人の自由、多様性を奪い、思想も行動も強制するようになる。そして、このように、本来は自分たちの本質だったものが外に投影されて、逆に支配するようになる自縄自縛を、フォイアーバッハは「疎外」と呼んだ。
それにしても、ただ投影された虚像にすぎないものが、どうやって実際に人間を支配したりすることができるのか。いや、じつは、我々は、文明として、我々自身でその虚像を実体化してしまってきたのだ。巨大な教会を建て、それを中心に都市を造り、国家となって、実際に人を暴力的に支配できる軍事力を備えている。それはもはや虚像ではない。
つまり、世界の物理的実在こそが、我々を支配している。これが「唯物論(マテリアリズム)」。そして、いわば蟻塚が蟻どもを使って成長していくように、モノとしての世界が自己発展していく。人間どもはそれぞれ自分で考えて働いているつもりだが、じつはモノの世界の発展に寄与するように使い潰されており、いよいよ自分たちの首を絞めていっている。
哲学
2020.06.27
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2021.07.29
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。