​革命期のドイツ観念論:カントからキルケゴールまで

2020.12.04

開発秘話

​革命期のドイツ観念論:カントからキルケゴールまで

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/カントは、理性の限界とともに実践の領域を発見した。しかし、そこでは、現実との対決が待ち受けており、ばらばらの自己定立が人々の同一性を打ち壊す。ヘーゲルは、ここに、学習し発展していく世界理性という新たな神を見たが、フォイアーバッハやマルクスは、唯物論としてモノの支配と人間性の疎外を疑い、共同体による革命の必要性を説いた。だが、キルケゴールは、カントに戻って、神は理性の限界の向こうに置き直し、それを支点として、他人とは異なる生き方、単独者としての実存を問うた。/

このように、キルケゴールは、カントの言う理性の限界を再認識することによって、カントと同様に、その向こうの実践が神に対する信仰の領域であることを再提起した。ここにおいて、神は、目に見えず、手も届かないはるか遠くの存在ながら、永遠不動の心の支点となり、我々に、絶対に知りえない人生の闇へ飛び込む勇気を与えてくれる、と彼は言う。



8.観念主義から実存主義へ

しかし、現実は、十九世紀も半ばになると、科学革命と産業革命、そして資本主義の進展によって、フォイアーバッハやマルクスの言うように、もはや社会にも精神にもモノとカネが溢れて、神だの信仰だのの余地は、完全に埋め尽くされてしまった。現実が希望、幸福へとつながっていない絶望にうすうす気づきながら、ただきょう一日を生きる自転車操業に、人は自分を省みること、それどころか、なにか考えることさえも放棄せざるをえなくなっていった。

もはや観念もへったくれも無く、ただ人間だけが、なんの基準も支点もない闇に浮かんでいる。世界観、価値観、倫理観の崩壊した虚無の世界、ニヒリズム。それで、キルケゴールの先に進んだニーチェは「神は死んだ」と言う。ここにおいて、疎外や絶望の問題は、いよいよ深刻になり、人間のあり方、実存が問われることになる。かくして革命期の観念主義は終わり、近代の実存主義が始まった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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