/よく西欧の歴史観は、天地創造から最後の審判まで直線的だ、などと言われるが、じつは、エデンの園に始まり、エデンの園に終わる、きれいな歴史の円環になっている。/
J ああ、神さまは、そういう悪いものは創ってないんですもんね。あれ、でも、大洪水だとか、硫黄と火だとか、そういうの、神さまの仕業じゃなかったでしたっけ?
いや、それは、まあ外科的な荒療治ということなんでしょ。内科的にも、律法だの預言者だので、人間が神に向き直るように導こうとしたりもしてますよ。でも、それでも、いったん狂って予定を外れてしまった世界の摂理は、どうにもならない。それで、仕方なく、神自身がイエスとなって、この世に降り、世の罪をぜんぶ背負って磔刑で贖った、とされます。
J 世界創造シミュレーションゲームで、後はこのままでうまくいくようにセットして、サルにコントローラを持たせておいたら、かってによけいなことをやらかして、世界をぐっちゃぐっちゃにしちゃったから、それで自分がサルのアカウントでログインして、トラブルをごっそり片付けた、っていうことかな。
しかし、イエスの贖罪だって、じつは世界の摂理の完全修復じゃないんです。この後、人間がイエスの教えに従い、神の方に向き直って、本来のすべきことをしてこそ、世界の摂理も持ち直すんで、そうでないと、人間はあいかわらずまたデタラメをやって、世界もまたいかれてしまう。
つまり、イエスの降臨も、神に背く原罪からの回心、心を向き変えることの最後のチャンスにすぎません。自分の自由意志で回心できるか、それとも、あらかじめ誰が回心するか神に決められているのかはともかく、この後、神は、救われる者と、罰せられる者と、個人個人を仕分けすることになります。
J いわゆる「最後の審判」ですね。
その前に、とりあえず死んだところで、ざっくり天国か、地獄かに、分けられます。ただ、キリスト教は、基本的にすべての人間に原罪があるとしているから、そうそうかんたんに天国に入れず、たいてい地獄に墜ちる。ほっておくと、最後の審判まで苦しみ続けることになる。それで、イエスが地獄に降りて、善人を救い出す、ということになりました。東方教会では、その後も、この考えを信奉しています。
一方、カトリックでは、「マタイ伝」で、ペトロがイエスから天国の鍵を授かった、とされていることから、これに続くローマ教皇が、イエスの代理人として天国行きを推薦できることになります。しかし、破門されて地獄に直行の悪人はともかく、ふつうの人も、みな原罪の一端を負っているから、死ぬと、地獄でないまでも、煉獄、プーガトリウムで苦罰を受け、罪を清めないといけない。それで、生きているうちに、また、すでに煉獄に墜ちている亡き人のために、天国に行けるよう、つねに教会に執り成しを祈ることになります。それが、洗礼・堅信・聖餐・告解・終油・叙階・婚姻の七つの秘蹟、サクラメント。さもなければ、キプリアヌスの言うように「教会の外に救い無し」として、煉獄墜ち確実。
哲学
2020.06.07
2020.06.27
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2021.04.05
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。